火はあかるく燃える

 海風が頬に冷たい。
 いつ訪れても冬の海は人を拒絶する。それを寂しいとか、悲しいとか人は嘆くのかもしれないが、千景にはこの冷たさが心地よかった。誰もが好むであろうやさしい春風のほうが、千景を不安にさせる。
 それに寒さなど慣れてしまえばどうということはない。用事を済ませてさっさと寮に戻ればいいのだ。
 だが、今夜は状況が違う。
 隣を歩く男を横目で見ながら、千景は数時間前の自分を呪った。
 団員たちが寝静まった時間をわざわざ狙ったのに、ガレージへ向かおうと玄関を出た瞬間、寮の門を通るガイと鉢合わせてしまった。
 バーの帰りにしては随分遅いように感じたが、閉店時間を過ぎてからもダラダラと居座る常連客でもいたのかもしれない。夜の仕事をしているガイの存在を失念していたなんて。警戒心の強い自分らしくない。
 動揺を顔に出さず、軽く会釈をしてその場をやり過ごすつもりだった。ガイが千景に尋ねてくるまでは。

「どこへ行くつもりだ?」
「……海へ」

 なぜ、ばか正直に答えてしまったのか。
 自分でも理解できなかった。

「なら、俺も一緒に行こう」

 静かだが有無を言わさぬ態度だった。
 そのまま二人で千景の車に乗り込み、ガイの運転で海に向かう道すがら、不覚にもうたた寝をしてしまったのは、油断していたとしか思えない。
 行き先を真面目に答えてしまったことといい、この男と一緒にいるとどうにも調子が狂う。

「まだ歩くのか?」
「ええ。崖の上まで行くので」

 車を降りてからずっと海岸線に沿って歩いている。
 海でなにをするのかまでは伝えていないので、さすがにガイも戸惑っているようだ。
 お互いわずかな言葉を口にしては黙り、海鳴りがその間を埋める。
 それでも二人の間に漂う気まずさは拭えなかった。

「……冬組は、よくみんなで海に来るって聞いてます」

 話の糸口を探ろうとしても、ガイと共有できる話題は劇団のことぐらいだ。

「ああ、そう言えばそうだな」
「こんな寒いなか海なんてよく行くなって思ってたんですけど、慣れると悪くないですね」
「冬の海は特にな。静かでいい」

 月は雲に隠れている。街の灯りは遠く、暗闇に二人の足音と、浅い呼吸音が響いている。
 はあ、と気まぐれに白い息を吐くと、ガイが隣で笑うのが聞こえた。

「どうしたんですか?」
「いや、入団したばかりの頃を思い出してな。夜になると、誰にも見られないようにこっそり寮のバルコニーに出て、そうやって白い息を吐いていた」

 それのどこに笑える要素があったのだろうか。
 千景の疑問を見透かしたように、ガイが言った。

「アンドロイドなら息は白くならないだろう。吐く息が白く広がるたびに、自分は人間なんだと答えをもらったようで嬉しかった。いい大人が、おかしいだろう」

 ガイの表情は分からないが、その声に感傷は感じられず、千景はなぜか安堵した。

「ガイさんは強いですね」
「そんなことはない。俺には卯木のほうが強く見える」
「俺は……強がってるだけです」

 自嘲気味に笑う。
 顔を見えずとも、ガイがなにか言いたそうにしているのが分かったが、千景は気づかないふりをして、「もうすぐ着きますよ」とだけ言った。
 ゆるい坂を上りきると、風がいっそう強くなった。
 この暗闇のなかでは、崖がどこまで続いているのか分からない。数メートル進んですぐに立ち止まった。
 足を止めた途端、ひときわ冷たい風が吹いた。耳の奥にじんと痛みが広がる。

「いつもこんなところまで歩いてくるのか?」
「ええ。今夜みたいな天気は久しぶりですけど。晴れてると月が海面に映ってきれいなんですよ」
「まさかわざわざこんなところまで月見をしに来てるわけでないだろう」
「はは、ガイさんに隠し事はできませんね。本当の用事はこれです……って言っても暗くて見えませんよね」

 千景は取り出したスマホのライトを付けると、手元を照らした。

「これは……」
「仕事関連のデータが入ったUSBです」
「海に投げるのか?」
「それだと不法投棄になるので、燃やします」

 千景はライターを取り出して火を付けると、そのまま適当な場所に放った。ちゃんと火が付くが不安だったが、小さな火は、地面に落ちている枯れ枝を燃やし、ぱちぱちと爆ぜる音を響かせた。
 しばらくすると辺りはお互いの顔を認識できる程度まで明るくなる。
 このあたりは背の高い樹木がないので、火が燃え広がる心配をしなくていい。
 海辺から離れているので乾いた枝木を探す手間が省けるし、火を起こす風の強さもちょうどよかった。
 十分な火力を確認すると、千景は火の中にUSBとスマホを放り投げた。

「仕事用のスマホですよ」

 安心させるためにそう言ったのだが、ガイの表情は曇ったままだ。

「いつも、こんなことを……」
「定期的に処分しないと、溜まってく一方なんです。こういう処理が得意な仲間がいるので、彼らに任せてもいいんですけど、あまり会いたくないんですよね。かと言って一般ゴミとして出すのはリスクが大きすぎる。それで、気分転換がてら海までドライブして、一人で焚き火を囲んでるんです。なかなか楽しいですよ」

 火が赤く燃えあがる様子を見るのは楽しい。
 それは、火そのものに魅力を感じるというより、データと一緒に自分も溶けていくように感じられるからだ。
 組織に拾われて、なにも知らぬまま犯してきたいくつもの罪が簡単に消えるとは思ってはいない。
 こんなのはただの気休めで、馬鹿らしい行為だとも思う。
 それでも、こうして炎の前に立っていると、自分が組織の人間ではなく、一般社会に溶け込んでいる「卯木千景」という人間なんだと実感できる。
 ガイが白い息を吐いて自分が人間だと噛み締めていたように。
 千景はこうして、自分がまだ完全に闇に飲まれていないことを確かめている。
 時折、卯木千景として生きる自分と、半分暗闇に身を浸している自分の、いったいどちらが本当の自分なのか分からなくなる。せめて、火が燃えている間だけは、この身にまとまりついている闇が消えてくれるといい。
 それをガイに言っても理解してもらえないだろう。
 千景も彼に理解してもらおうとは思わない。
 自分と同じように闇に潜む人間特有の匂いがするガイでさえ、いままで千景が経験してきたことの片鱗すら、想像できないだろう。

「本当にそれを燃やすためだけにここに来たのか」

 火を眺めながらガイが千景に尋ねる。

「あとは報告も兼ねて。ここで死んだやつに、たまには顔を見せておかないと怒られそうなので」
「そうか……それなら、よかった」

 なにがよかったのだろうか。
 炎に照らされたガイの顔は普段と変わらず無表情だ。

「俺が海から飛び降りるとでも思いました?」
「いや、そこまでは……ただ、あのとき声をかけなければ卯木は寮に戻ってこないような気がした」
「姿を消すぐらいで許されるなら、とっくに劇団からいなくなってますよ」

 冗談半分でそう答えたが、ガイの目を直視することはできなかった。
 会話は完全に途切れた。
 二人の男が崖の上で火を囲む姿は傍からみたら異様だろう。幸い今夜は闇がすべてを覆いつくしてくれている。
 崖下に打ち寄せる波の音は暗闇に潜む獣の咆哮のようだ。
 乾いた音をたてて容赦なく異物を飲み込んでいく炎を眺めていると、自分がひどく無防備な存在に思える。
 いつか自分もこうして燃えていくのだろう。
 そのときになって千景ははじめて許されるのかもしれない。

「もう、十分だろう」

 炎に魅せられている千景にガイが言った。
 顔を上げると、ガイと視線がぶつかる。
 炎に照らされた男の顔は、千景の心の奥底を見透かし、灰にな るまで焼きつくしていくようだった。

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