目も眩むような

「どなたですか?」

 その声を耳にした瞬間、忘れていた記憶が溢れてきた。
 立っているだけで汗が流れてくるほど暑い日だった。むせるような香辛料の匂い。男たちの怒鳴り声。どこかから流れてくる陽気な歌声。波のように寄せては返す人混み。そして、柔らかな母の手。
 夢のように思えるほど、幸福な瞬間だった。
 記憶の断片はまるで砕け散ったガラスのようだ。そのひとつひとつが、ガイの胸を突き刺し、生々しい傷を残していく。

「……いたずら電話? まったく、お昼時に迷惑ね」

 苛立ちを含んだ声。
 伝えたい言葉を用意していたはずなのに、スマホを握りしめたまま、ガイは一言も話せなかった。
 自分の名前だけでも伝えたい。そう思っても声は出なかった。しばらくすると、相手が大きくため息をつくのが聞こえ、結局一方的に電話は切られてしまった。
 それから、どれぐらいの時間が経っただろうか。

「ガイさん、大丈夫ですか?」

 背後から声をかけられて、ようやくバーの扉を閉め忘れていたことに気づいた。
 振り向くと、スーツ姿の千景が立っている。

「覗き見するつもりじゃなかったんですが、扉が開いていたので……大丈夫ですか?」

 千景がもう一度ガイに尋ねた。

「……大丈夫、ではないな」
「ですよね。スマホ、逆に持ってますよ」

 はっとして手元を確認する。

「冗談です」

 千景がいたずらが成功して喜ぶ子どものような顔で笑った。

「……卯木は本当にいい性格をしてるな」
「よく言われます。褒め言葉として受け取っておきますね」

 千景が機嫌よくカウンターのスツールに腰を掛けた。
 バーの空気は張り詰めていてる。なのに、そんなことなど気にもせず、千景は自分のペースを崩さない。そんな飄々とした男と対峙していると、ガイの気持ちも段々と落ち着いてくる。
 なにを考えているかよく分からない男だ。
 だが、いまはその掴みどころのない男が傍にいてくれることに、安堵している自分がいる。

「仕事がはやく片付いたので一杯飲もうかと思ってバーに寄ってみたんです」
「そうか。それはすまなかった。今夜は急に早仕舞いすることになってな」
「さっきの電話の相手が原因ですか?」

 千景は迷いなく核心を突いてきた。
 普段は他人への興味感心が薄いように見えるのに、人の心の脆い部分を突くのがうまい。
 そしてガイは、面と向かって問われて、上手くごませるほど器用ではない。
 もともと嘘もごまかしも苦手だ。率直なところがお前のいいところだ、と主にもよく言われている。
 この場はどうやっても千景に分があった。

「母だ」

 ガイの返答が予想外だったのか、千景がわずかに戸惑った表情を見せたと思うと、意外にも謝罪を口にした。

「すみません、プライベートなことに首を突っ込んでしまって」
「いや、構わない。結局……一言も話せなかったからな。早仕舞いしたのも、母が原因というより、こんな精神状態でバーのカウンターに立ちたくないと自分で判断したからだ」

 ガイが淡々と話すのを千景は黙って聞いている。
 自分の肉親のことを誰かに話すのはどこか気恥ずかしい。
 だが、千景にはバーでぼんやり立っている姿をすでに見られている。いまさら取り繕う必要もないだろうと開き直り、ガイは話を続けた。

 母が倒れたという一報が届いたのは、ガイがバーの開店準備をしていたときだった。
 ミカによると、体調を崩してしばらく入院していたようだ。ミカも人づてに聞いたようで、詳細は不明だったが、ひとまずガイに伝えようと急いで電話をよこしたらしい。
「もし会いに戻られるようならすぐに航空券を手配します」と気を利かしてくれたが、断った。
 ガイのその反応でミカはすべてを察したようだ。それ以上深追いしてくることはなかった。
 ザフラの王宮内は様々な人間の思惑が複雑に渦巻いている。突然ガイが帰国すれば、どんな噂を流されるか分からない。それに、十年以上会っていない母に、いったいどんな顔をして会いに行けばいいのだろう。来日する前に連絡だけはしておこうと、王宮の者に便りを届けてもらったが、それに対する返事はなく、返事がないことに母からの明確な拒絶を感じた。
ーーあなたのことなんか知らない。どこにでも行ってしまえばいい。
 そう言われたも同然だった。
 以来、ガイは彼女の平穏を乱すまいと決めていた。
 ミカとの電話のあと、すぐにバーを開けたが、案の定集中できなかった。
 数人の常連を迎えた後、早仕舞いすると決め、何十年も足を踏み入れていない自宅にわざわざ国際電話をかけた。自分でも矛盾しているとわかっていた。母の人生を壊すつもりはない。ただ、無事を確認できればそれでよかった。
が、母の声を聞いたとたん、なにも話せなくなってしまった。
 溢れてきた思い出がガイからすべての言葉を奪ってしまったかのように。
 結局、いたずら電話だと誤解されたま電話を切られ、電源の落ちたロボットのようにスマホを持って立っているところに、千景が来店した。

「以上が、早仕舞いをした経緯だ」

 長年のアンドロイド暮らしのせいか、心は乱れていても、動揺を顔に出さずにすらすらと言葉が出てくる。
 なぜ母との会話ではうまくいかなかったのだろう。
 もしガイが本当にアンドロイドだったら、こんな故障は修理して治せるのに。人間として生きていると、そう簡単に自分を治せない。

「親不孝だと思うだろうか?」

 千景に尋ねると、いつもの不敵な笑みが返ってきた。

「俺は母親の顔も覚えてませんよ」
「それは、悲しいことなのだろうな」
「どうでしょうか。親の顔を覚えていなくても大人にはなれますよ」
「思い出もないのか」
「ないですね」

 即答だった。
 千景と違って、ガイは母の姿形をよく覚えている。情が残っているからというより、人の顔を覚えるのは数字を覚えることと変わりないからだ。それこそ自宅の電話番号を覚えているのと同じだ。
 自分は母が恋しいのだろうか。
 もう一度会いたいのだろうか。
 明日にも飛行機に乗って彼女に会いにいくべきだろうか。
 分からない。
 いままで、記憶の母は数字と同じで、ただ脳の底に存在しているだけで、なんの感傷も呼び起こされなかった。
 だが、今日彼女の声を聞いて、思い出してしまった。
 幼い頃、母と二人でバザールを訪れたことがある。ザフラの祝日だったのか、身動きが取れないほどの人混みのなかで、ガイは迷子になってしまった。そんなガイの手を掴んでくれたのは、間違いなく母だった。母と二人きりで出かけたということは、彼女が再婚相手と出会う前だろうか。義父と暮らし始めてからの母は、ガイをいっそう気味悪がるようになり、二人で出かけるなどありえなかった。
 自分に対して無関心を貫く母と、あの夏の日の優しい母。
 どうしていまさら思い出してしまったのだろう。
 もう母を数列と同じだと思えなくなってしまう。

「なんかさらに悩ませちゃってすみません。咲也ならもっと気の利いたことを言えたかもしれませんが」
「謝る必要はない。俺こそつまらない話をしてすまなかった」
「今日はお互い謝ってばかりですね」
「そうだな」

 ガイが小さく笑うと、千景が静かに尋ねた。

「会いたいですか?」
「俺は……怖い」

 そう言ってから、ガイはようやく気づいた。
 自分はずっと怖かったのだと。
 数字のような無機質な記憶なら、感情を揺り動かされることもない。
 母がどんなに自分に冷たかったとしても、そういうものだと割り切ることができた。
 でも、いまは違う。
 ほんの一瞬だとしても、確かに自分は母に愛されていた。そんな思い出と一緒に母を憎むことなんてできない。
 こんな曖昧な感情を抱えて生きることが、怖い。
 ガイが伝える言葉をさがしていると、千景が言った。

「怖いものからは逃げていいんですよ」

 そう言う千景の言葉には強い説得力があり、眼差しは夜明けの朝日のように穏やかだった。

「逃げたらどうなる」
「俺は母親を忘れると決めて、いろいろありましたけど、ガイさんと出会えました。逃げ続けたわりには、自分でも悪くない人生だと思いますよ」

 逃げることは惨めなことだと思っていた。
 過去と向き合わなければ解決できなとも。
 だが、目の前にいる男はいとも簡単に「逃げてもいい」と口にする。

「そうか、逃げてもいいのか」

 ガイの声は震えていた。
 ずっと手の中に握りしめていたスマホをカウンターに置く。
 それでもスマホから手を放せないでいると、ふいに千景の手が重なった。
 千景の手のひらは、驚くほど冷たい。
 その冷たさがガイの心を落ち着かせた。
 あの夏の日、汗だくになって母を探していた幼い自分と目も眩むような鋭い日差しが、記憶の底へ沈んでいくようだった。

ガイさんも千景も母性というものを信じていなさそうだし、母親なんてそんなものだとなと達観していているあたりが寂しいなと思います。
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