祝福
扉を開けるとバーのカウンター席はすでに客で埋まっていた。
空いている時間を狙ったがどうやら予想が外れたらしい。ほっとしたような不安が増したような、なんとも言えない微妙な気分だ。こんなことになるなら地下へ続く階段を下りているときに引き返せばよかった。
「すまないが、いまは満席だ」
このまま立ち去るつもりだったが、声の主と目が合った。彼は千景の顔を認めると堅苦しい表情をわずかに緩めた。あまりにも微細な変化なので、それが彼――このバーのマスターであり同じ劇団の仲間であるガイが見せる、精一杯の笑顔だと分かるのはおそらく千景だけだろう。
「卯木、せっかく来てくれたのに悪いな」
「気にしないでください。また日を改めますから」
ガイがなにか言葉を口にする前に、千景は店内の喧噪から逃げるように店の扉を閉めた。
階段を駆けあがって地上に出ると一気に肩の力が抜けた。
その場にへたり込みたい衝動をぐっと抑えてビルの外壁によりかかる。
やはり来るべきじゃなかった。バーになど寄らず、拠点にしているマンションから寮へ直接帰ればよかった。任務のあとはいつもそうしているように。ルーティンを崩すとろくなことにならない。特に千景のような人に言えない仕事をしている人間は、一度自分で決めたルールを崩すと、そこから隙が生まれて、いつの日か致命傷になりかねない。そうやって冷静な判断ができなくなって消えていった仲間を何人も見てきた。
今夜処理した男もその一人だ。
男の顔を千景は知っていた。数年前に一度だけ、同じ任務に関わったことがある。その後、東欧支部で活動していると耳にしたぐらいで、いままでどんな任務に携わっていたのかは不明だ。男が抹消リストに載った原因は、任務で致命的なミスを犯したか、敵側に寝返ろうとしたか、もしくはこの世界から足を洗おうとしたか。原因がなんであれ、彼はこの仕事に耐えられるだけの強さを失ってしまったのだろう。使えないと判断された人間の末路は惨めだ。
組織は陰湿だ。弱い人間は即座に切り捨てる。熟れすぎて傷んだフルーツと同じ。食べられないフルーツは捨てて、新しいものをまた買い直せばいい。捨てるときは、もちろん同じ組織の人間を使う。
抹消リストの処理は、千景たちにとって最も精神的にこたえる任務のひとつだが、定期的に回ってくるので、ある意味組織から課される進級試験のようなものなのだろう。仲間を切り捨てるだけの非情さと任務を全うする冷静さを失っていないか。さらには組織への忠誠心を人の命よりも優先できるか。それらを見極めるのに最適な任務という訳だ。
弱者が消え、強者が残る。
自分はぜったいに捨てられる側にはならない。誰にも隙を見せない。どんなときでも冷静でいられる。そう思ってこれまで生きてきた。
だが、今夜の千景は正常な判断ができる精神状態ではなく、寮に帰ろうか悩んでいるうちに、結局ガイのバーへ足が向いていた。何度も引き返すチャンスはあったのに。
いまさら後悔しても遅い。自分で気づいていて強行した結果がこれだ。
察しのいいガイのことだから、逃げるようにバーから去った千景のことを不審に思っているだろう。
本当に自分らしくない。
どれぐらいビルの外壁に寄りかかっていただろうか。後悔するのにも飽きて、そろそろ寮へ帰ろうと駅に向かって歩きはじめたときだった。
後ろに人の気配を感じたのと声をかけられたのは同時だった。
「卯木」
まさか、と思いながら振り返ると、そのまさかだった。
「ガイさん、店を抜け出してもいいんですか」
「ついさっき御影が来てくれたから大丈夫だ」
「あいつのことはいくらでもこき使っていいですからね。居眠りしてたらその分の給料はしっかり減らしてください」
「卯木は御影に手厳しいな。よく働いてくれているから安心してくれ。特に今夜は人手が足りなくてな……」
「そう言えば、今日の店内はいつもより賑やかでしたね」
店内をちらっと見ただけだったが、今夜は若い女性が多かったように思う。なかには酔っていたのか、大声で話している客もいて、いつもの落ち着いたバーの雰囲気とは異なっていた。
千景の言葉にガイの表情が僅かに曇った。
眉根にほんの少し皺が寄った程度だが、ガイが思い悩んでいるのが見てとれた。
「誰かがバーのことをSNSで紹介したらしくてな」
「ああ、バズったってやつですか」
「そうらしい。俺はそのSNSの投稿は見ていないが、三好が連絡をくれてな。まさかここまで反響があるとは」
SNSの投稿がどんな内容だったのか容易に想像できた。彼女たちが来店した目的は明らかに店長のガイだろう。
ガイの容姿はひと目を惹くから、そこだけが切り取られて拡散されたに違いない。
店内に流れる音楽も、ザフラ料理をアレンジした独特なフードメニューも、バーを訪れる人たちに楽しんでもらいたいと、ガイが心を込めて選んだものだ。その思いを無視して、彼の外見だけを目当てにやってくる客を相手にするのは、さぞ骨が折れることだろう。
「あまりに度が過ぎる客は出禁にしてもいいと思いますよ」
「誰であれ、バーを訪れてくれた人は大切なお客様だ。だが……さすがに疲れたな」
ガイと出会ってからそこまで長い時間を一緒に過ごしたわけでない。それでもガイが愚痴や弱音からはほど遠い人だということは分かる。そんな彼から意外な本音がこぼれて千景は驚いた。
「ガイさんも、そんなふうに弱気になるんですね」
「人間だからな」
「はは、アンドロイドは卒業しましたもんね」
「卯木のお陰でな。さあ、次は卯木の番だ。俺になにか用があってバーに来たんじゃないのか?」
尋ねられた瞬間、言い訳することもできたが、千景はそうしなかった。言い訳をしてもガイはそれを見破ったうえに、今度は「なんで言い訳なんかするんだ?」と真顔で訊いてくるだろう。無駄な悪あがきをしても結局は自分が惨めになるだけだ。
「ガイさんにはなんでもお見通しですね」
「そんな顔をしていれば誰だって心配になる」
「……俺、いまどんな顔をしてますか?」
情けない声が出た。この声だけでいま自分がどんな顔を見せているのか想像できた。
咄嗟に鞄を掴んでいない手で顔を覆うとすると、ガイにその手を掴まれた。
「放してください」
「放したらまた逃げるだろう」
「俺はこの手で人を殺してきたばかりなんですよ」
脅しのような言葉に怯む様子もなく、ガイはいっそう強く千景の手を掴んだ。
いつもの千景なら相手の腕が折れるのも構わず無理矢理振りほどくのに。
ガイの前では力が出せなかった。
「そんなのは放す理由にならない」
きっぱりと断言されて、千景はもうなにも言い返せなかった。
ガイの目はじっと千景を見据えている。言葉に嘘がない彼の目はいつだって澄んでいる。バーテンダー制服には染みひとつ付いていないし、ガイが身にまとう清廉さは彼の精神そのもののように思える。
「……どうして……そんな強くいられるんですか?」
ガイは表情を変えずに即答した。
「守りたいと思える者たちがいるからだ」
ガイならそう言うだろうと思っていた。
自分のためではなく誰かのために強くいられる人だから。
それは自分のために生きることしか知らなかった千景とは真逆の生き方だ。
「卯木にもそういう者たちがいるだろう?」
「俺は……強くなれませんでした」
劇団に入って、大切な存在が増えて、強くなるどころか弱くなった。
それを、今夜、あの男を始末する瞬間に気づいてしまった。
いつか自分も失敗して、あちら側になってしまうんじゃないか。
死ぬのは怖くない。そう訓練されたきたから。
守りたい人たちを守れなくなるのが怖かった。
元仲間の男を前に、突如込み上げてきた恐怖は、任務が終わっても千景の心にしぶとく残った。こんな状態で、血の匂いとは無縁の寮へ帰ることはできなかった。そんなとき何故かガイのことが頭に浮かんだ。
ガイなら分かってくれるかもしれない。清潔さと、善良さと、それらのなかに巧妙に隠された『なにか』。その『なにか』はおそらく千景が身を置く世界と限りなく似ている。
ガイなら自分を分かってくれるかもしれない。誰かに自分のことを知ってほしいと思うのははじめてだった。
ガイに掴まれている手を見下ろしながら千景は言った。
「話したいことがあってここまで来たんです……でも……」
「話すつもりはないのだろう?」
「まあ、そうですね……」
ガイに知ってほしい、分かってほしいと思っても、自分からは伝えられない。そうした自己矛盾もまた千景を弱くする原因のひとつだ。
「卯木がどんな覚悟で劇団に入って、なにを背負って生きているのか、俺には理解できない。だが、想像はできる。分からなくても、分からないなりにお前の心に寄り添うことはできるだろう。そういった存在が一人でもいることは救いになる。これは俺が人間になれたときに感じたことだ。自分一人の力だけでは記憶を取り戻すことはできなかったから」
そう言ってガイは千景に微笑んだ。
突然仕事場にやって来た男になにも訊かないでいてくれる。いま、この人の手だけが千景を現実に引き留めてくれている。
弱さも後悔も、捨てなくていいのだと思わせてくれる。
今夜、こうしてガイに会いに来たことを、後悔するのではなく祝福できる日が来ればいい。そんな夢のような未来を願うこと自体、自分の身を危うくすると分かっていても。
千景が無言でガイの手を握り返すと、ガイがさらに強く握り返してきて、自分がいままでしてきたことを許してくれなくてもいいから、ただこの人の傍にいたいと思った。