バックハグ
カメラのシャッター音が鳴り、大型のストロボライトから光が放たれる。撮影に慣れていないタレントはその明るさに必ず目を閉じてしまうという。しかし、幼いころから何度も撮影に挑んでいる天馬には、そんな強い光を跳ね返すだけの目力とキャリアがある。雑誌や広告向けの撮影は天馬の得意な仕事のひとつだ。
今日の撮影も特に不安要素はなかった。大きなトラブルもなく順調に終わるはずの仕事だと思っていた。
共演相手かいると聞かされるまでは。
「えっ? 女の子と一緒に撮影ですか?」
井川が驚いたのも無理はない。現場に到着した途端、天馬だけで撮影する予定が変わったと伝えられたのだ。井川から「天馬くん、平気?」と小声で訊かれ、そのあまりに情けない顔に怒鳴る気も起きなかった。井川のせいではないが、さすがにそんな大きな変更は前日までに知りたかった。自分が下に見られている気がして腹が立つ。
「どんな仕事でも受けるのがプロだろ。オレは問題ない」
天馬がそう言ったときの井川の安堵した表情は忘れられない。地獄から救い出された死人みたいな顔だった。
「さすが皇くんだね。そう言ってくれると思ってたよ。女性向けの商品なのに、男性タレントだけが広告に載るのっていまいち受けがよくないっていうかさ、やっぱり同年代の女の子がいたほうが華やかになるんだよね。まぁ、相手の子はアイドルじゃないし、天馬くんのファンが炎上することはないから安心してよ。昔の芸能人みたいに、舞台に生卵とか投げられたら大変だもんねぇ」
広告会社の担当らしき人物がべらべらと話すのを聞きながら、天馬は怒りで頭の奥が熱くなるのを感じた。
自分のことを『天馬くん』と馴れ馴れしく呼ぶのはまだ許せる。しかし、大切なファンを馬鹿にされるのは耐えられなかった。ぎゅっと握った拳が震えて、井川に目配せされなかったら殴っていたかもしれない。
ヘアメイクをしながらバタバタと撮影内容の説明を受けた。いつも以上に慌ただしい準備のなかで、この変更が現場にもきちんと伝わっていないことが分かり、スタッフを気の毒に思った。
天馬の相手役の女の子も緊張して表情が固い。もう何十枚も撮っているのに、未だにカメラマンが渋い顔をしている。
「もう少し顔を近づけて……そう、そんな感じかな。天馬くん、手を握ってみて。カップルみたいな雰囲気で。うーん……ぎこちなさが出ちゃうなぁ」
カメラマンが困ったように頭を掻く。モニター画面を見ているスタッフの顔も険しい。
コンセプトは「休日に恋人と部屋デート」なのに、被写体二人の呼吸が合わない。当の女の子があまりに撮影慣れしていないのだ。いったいどこから連れてきた素人だよ、と呆れてしまう。それが相手にも伝わるのか、シャッターが切られる度に心の距離が離れていく悪循環に陥っている。
「ちょっと休憩しようか。十五分後に再開します」
カメラマンの一言で、現場を覆っていたピリピリとした緊張感が解けた。天馬も水分補給をしようとセットのソファーから立ち上がる。
「すみません」
撮影相手が消えそうな声で謝ってきた。俯いているので表情は分からないが、このままなにも言わないで立ち去るのも酷な気がして、天馬はもう一度ソファーに座った。
「もしかしてこれがはじめての撮影とかじゃないよな?」
「……はじめてです」
あまりに慣れていない様子からそうじゃないかとは思っていた。シャッターの音がなる度にびくっと肩が震えていたし、カメラマンの指示にも戸惑っていた。
「こんなことあんたに効くのも変だけど、なんでオレと一緒に撮影することになったんだ?」
「実は父が……」
と女の子が言ったのはある大物俳優の名前だった。天馬の父親と同じく国内だけでなく海外でも活躍する俳優だ。彼女は彼の娘だという。
「父が広告会社の方とお食事をした際に私の話が出たそうなんです。バイトのつもりで広告に出てみないかって。芸能界に入るつもりはないし、そんなのプロの方に失礼だって断ったんですけど……。しかもお相手が皇さんだと今日聞かされたんです。憧れの方がこんな近くにいるなんて、緊張しすぎて頭が真っ白になってしまって……」
「そ、そうか……」
目の前で「憧れていた」と言われて嫌な気はしない。しかし、撮影が上手くいかないと延々と無駄な時間だけがすぎてしまう。なんとか彼女の緊張を解して撮影を終わらせたい。
なにか良い方法はないかと考えるが、いかんせん仕事一筋だった天馬に恋愛関係の引き出しは多くない。いまごろ劇団の寮でスイーツを頬張っているだろう恋人には、いつもリードしてもらってばかりで、天馬が十座を引っ張るのは稽古のときぐらいだ。
十座がまだ芝居に不慣れでぎこちなかったころが懐かしい。
十座はどうやって緊張を克服したのだろう。初舞台は吐きそうなほど緊張したと言っていたが、最近はそうでもないようだ。そう言えば緊張を解く方法があるとかないとか、そんな話をしたことがある。天馬は記憶の糸を辿りながら、彼女に使えそうなアドバイスを思いついた。
「あんた、そのままの自分でいいって思ってないか?」
「えっ」
「自然体でいいからって言われたんだろ」
「は、はい。そうです」
「オレたちはこの撮影で『恋人』を演じるんだ。だからオレに憧れてる自分じゃなく、オレに愛されてる彼女になりきったらどうだ?」
「彼女ですか? そんな恐れ多いです……」
「オレに愛されるなんて幸せだろ?」
にやりと笑うと彼女の顔がたちまち赤くなった。
「あとシャッターの音を怖がるな。オレに遠慮するな。演じろ。いいな?」
「は、はい!」
天馬の勢いつられて彼女の表情が少し明るくなった。あの俳優の娘なら飲み込みも早いだろう。彼女は「違う自分を演じる、ですね」と呟くと、今日会ってからはじめて笑顔を見せた。
休憩後の撮影は前半の不調が嘘のようにスムーズだった。天馬も積極的にカメラマンに意見して、相手が撮りやすいポーズや表情を提案した。そのかいあって、カメラマンもスタッフも理想の一枚が撮れたと満足そうだ。
「ありがとうございました」
撮影後、花束を抱えた女の子が改めて天馬にお礼を言いにきた。
「そ、そんな大したことしてない。頭上げろよ」
「皇さんに『違う自分になりきれ』って言われたとき、頭の中でなんだかスイッチが入ったんです。緊張も吹き飛んじゃいました」
「それなら良かった。まぁ、仲間の受け売りだけどな。その人も初舞台はあんたみたいにガチガチに緊張してたよ」
「同じ劇団の方ですか?」
「あぁ。『違う自分を演じるのが楽しい』って思えるようになってから緊張しなくなったらしい」
「私もすごく楽しかったです」
撮影開始時の固い表情からは想像できないくらい晴れやかな顔だ。良い仕事が出来て天馬も嬉しくなってしまう。
「また、一緒に仕事できたらいいな」
「ぜひ!」
芸能界に興味はないと言っていたが、人懐こい性格と反応の良さは周りが放っておかないかもしれない。スタジオを去っていく彼女の後ろ姿を見ながらそんなことを思った。
「さすが共演者キラーの天馬くんだねぇ」
粘つく声に背筋がぞくりとした。
いつの間にか天馬を『タレント』呼ばわりした広告会社の男が後ろに立っていた。反射的に距離をとろうとすると、ぐっと天馬の腰を掴んでくる。薄いシャツの下からするっと指が入り込む。
あまりのことに反応できず、息が止まる。
「さっきあの子に言ってた言葉、痺れちゃったなぁ。『オレの彼女になりきれ』だっけ? あんなこと言われたら誰だって君に落ちちゃうよね」
ぬちゃぬちゃと唾液の音が分かるほど耳元で囁かれ、あまりの気持ち悪さに吐きそうになる。助けを呼ぼうとあたりを見回しても、スタッフは機材の後片付けで忙しそうだ。それにこんなところで事を荒立てたくない。
男の指がゆっくりと天馬の腰を撫でまわす。
声が出ない。嫌な汗で背中がじっとりと濡れている。どうすればこの男から逃げられるか。天馬は朦朧とする頭で必死に考えた。
首筋に生暖かいものを押し付けられ「天馬くんって童貞? 処女?」と聞かれた瞬間、天馬の中で言いようのない羞恥が溢れ、怒りが頂点に達した。
踵に力を込め、躊躇なく男の脛を蹴る。
骨が砕けても構わないと思った。
手加減なんてしたくなかった。
低い呻き声とともに男が踞る。異変に気付いたスタッフが「どうしたんですか?」と心配そうに駆け寄ってきた。
「ケーブルが足に絡まって転んでしまったみたいなんです。大丈夫ですか? 気をつけてくださいね」
天馬が男に声をかけると、スタッフは「危ないなぁ」「本人の不注意でしょ」と口々に言いながら片付けを再開した。男はまだ踞っている。誰からも心配されない様子から、人望が無いことが一瞬で分かった。こいつがなにを言っても大丈夫だろう。
オレの芸歴舐めんなよ、と心の中だけでありったけの悪態をついた。
寮に戻っても首筋に押し付けられたぬるっとした感触が忘れられなかった。考えたくないが、恐らく唇か舌だろう。耳元で囁かれた言葉のひとつひとつが呪いのように頭をぐるぐると駆け巡る。
せっかく監督が作ってくれた夕飯のカレーもあまり喉をとおらなかった。みんなには「撮影で疲れたから」と言って、早々に共有スペースから立ち去った。
ポーカーフェイスを保てるほど冷静になれていないし、心配されると余計に惨めになりそうだ。とにかくいまは一人でいたい。
バルコニーの椅子に座りながら夜風にあたっていると、徐々に頭がすっきりとしてきた。
天馬のことを『オレ様二世タレント』と言って馬鹿にしている人間がいるのは知っている。そんな奴らを見返すためにどんな仕事も完璧にこなしてやると決めたのだ。落ち込む暇があったら稽古をしろ。それに、芸能界にいれば嫌のことのひとつやふたつあるに決まっている。こんなこといちいち気にしていたらキリがない。
頭が整理されていくのとは反対に、首筋の感触だけが生々しく思い出された。どうにかして嫌な思い出を消そうと、ガリガリと爪で引っ掻く。痛くなるほど掻けば気色悪い感触が忘れられる気がした。
強い風が吹いて木々が一斉に揺れる。半袖で外にいるにはまだ寒い季節だ。そろそろ部屋に戻ろうと腰を上げると、ちょうどバルコニーに近づいてくる十座と目が合った。
「天馬、こんなことでなにしてんだ?」
問いかける十座の顔をまともに見れなくて、すぐに視線を反らす。爪で引っ掻いた首筋がヒリヒリする。
すでに風呂に入った後らしく、十座は濡れた髪を下ろしている。オールバックにセットしているときとはずいぶん雰囲気が違う。髪を下ろしているとどこか幼く、年相応に見えるので、天馬はこっちの十座も好きだなと思っている。もちろん普段の凛々しい姿も魅力的だ。
「ちょっと頭を冷やしてただけだ。もう部屋に戻る」。
なるべく会話を続けたくない。今日のことをうっかり話してしまいそうで怖かった
近づいてくる十座の横を足早に通りすぎる。
「おい、天馬」と後ろから声をかけられても、聞こえない振りをして外廊下を進んだ。
振り返ったら駄目だ。せっかく整理した頭がまたぐちゃぐちゃになってしまう。
どうしてこういうときだけ上手く演技ができないのだろう、と天馬はもどかしく思った。
「天馬、」
と十座の切羽詰まった声がしたと同時に手首を掴まれた。反動で後ろにバランスを崩しそうになる。倒れる、と思った瞬間にはもう十座の大きな腕で抱き締められていた。
首に回された腕が逞しい。背中に感じる体温が甘い毒みたいに身体中に広がって、天馬は動けなくなった。
「お前歩くのけっこう早いんだな」
耳朶を霞める低い声。
好きな人の声ならこんなに心地よく耳の奥に響くのに。天馬は後ろから抱き締められながら、今日の不快な出来事が優しく上書きされていくような気がした。
「そんなに思い詰めるほど撮影大変だったのか?」
十座に訊かれて言葉に詰まる。十座にだけは知られたくない。
「ちょっと大きな変更があって撮影が長引いたんだ。撮影相手も慣れてなくて、でも十座さんの話をしたらすごく良くなった」
「俺の話?」
「いつか話してくれただろ? 『舞台に立つと違う自分になれる。それが楽しくて仕方がない』って」
「あぁ。そうだな。その相手が俺みたいだった?」
「緊張しやすいところが十座さんそっくりだった」
そうか、と十座が笑いながら言った。
こちらからは見えないが、口の端を少し上げて笑う顔が想像できた。
「あんまり抱え込みすぎるなよ」
「うん。ありがとな、十座さん」
十座がぎゅっと力を込めて天馬の肩を抱くと、濡れた髪から柑橘系の香りがした。「苦しいって」と言いながらぽんぽんと十座の腕を叩くと、後ろから回されていた腕が緩やかにほどかれた。
「天馬、ここ血が出てるぞ?」
体が離れた拍子に引っ掻いた跡が見えてしまったらしい。しかも血が出るほど掻いていたとは。
天馬は思わず手で首筋を隠した。
「か、痒くて爪で掻きすぎただけだ。後で消毒……」
「こんなの唾つけときゃ治るだろ」
跡を隠していた手が無理やり剥がされ、柔らかい感触が首筋をなぞった。あ、とため息が溢れる。
十座の舌が傷痕をゆっくりと舐める。ただそれだけなのに、なにも考えられないくらい頭が痺れてしまう。
きつく吸われ、びりっとした痛みに体が跳ねると、そんな天馬の姿に満足したようにようやく十座の唇が離れた。
「じゅ、十座さん! いきなりびっくりするだろ」
「……天馬、顔も赤いぞ」
当たり前だ、との意味を込めて十座を睨む。どうしてこの人はいつも予想外のことをしてくるのだろうか。心臓がいくつあっても足りない。
「こんな気障なことどこで覚えたんだよ。椋の少女漫画か?」
「さぁな。ほら、早く中に入らないと風邪引くぞ」
楽しそうに笑う十座に手を引かれながら二人で寮の中へ入る。
首筋と顔が熱い。
天馬に迫ってきた不愉快な男のことも、忌々しい言葉や行為も、すっかり忘れてしまうくらい、どこかへ飛んでいってしまった。上書きどころか、綺麗さっぱり削除されてしまったらしい。
撮影で「オレに愛されるなんて幸せだろ?」なんてよく言えたもんだ。
十座に愛される以上の幸せなんてないのだから。
オレも椋の漫画を読みすぎかもしれない、と恥ずかしくなりながら、天馬は暫く首筋に残っているはずの痕が消えないで欲しいと思った。