白昼堂々
最近、よく耳にする噂があった。ありがちな展開だけれど、はじめてその噂を知ったのは教室に忘れ物を取りに戻った時だ。手をかけた扉越しに、同級生たちの会話を聞いてしまった。
あまりにもくだらない内容に呆れるしかなく、その場で訂正する気すらおこらなかった。
あっという間にみんな興味を失うだろう。
そう思っていたのに―。
「ねえ、昨日また一緒に帰ってたんだけど」
「またあ? やっぱりあの噂、本当だったんだ」
「その噂って、天馬が兵頭十座の下僕になってるってやつ? 弱みを握られて言いなりになってるって聞いた」
きゃあきゃあと甲高い声にぶつかって、天馬は階段を下りる足を止めた。おそらく一階の下駄箱あたりで話しているのだろう。がらんとした校内で、彼女たちの声はよく響く。
天馬は、足音を殺しながら二階から続く階段の踊り場までたどり着くと、じっと話の行方に耳を傾けた。
「同中の子が言ってたんだけど、兵頭十座って昔クラスメイトを殴って大けがさせたんだって」
「それ、私も聞いたことある。顔面殴って、相手の鼻折ったんでしょ」
「ええ、怖っ」
「早く卒業して欲しいよね」
ぐっと鞄を掴む手に力が入る。なにも知らないくせに、と大声で叫びたくなるが、ここで天馬がなにを言っても噂に尾ひれがつくだけだろう。
十座には他校生に絡まれている場面で助けてもらい、それから度々一緒に下校するようになった。二年と三年では時間割も違うし、補習の多い天馬は同級生よりも帰りが遅くなる。太一と帰ってくれて構わないのに、「また絡まれたら面倒だろ」と天馬を待ってくれる十座を、そんなふうに悪く言って欲しくない。
時間が合えば同じ補習組の太一と三人で帰ることもある。なのに、なぜか天馬と十座だけが注目されて変な噂が出来上がってしまった。
下僕だとか、手下だとか。
教室で、廊下で、天馬をこっそり覗いながら意味ありげな視線を投げかけてくる生徒たち。
幼い頃から他人の目にさらされている天馬にとって、彼らの不躾な視線は気にもならないが、十座を悪く言われるのだけは耐えられない。
「あとさ、こんな噂もあるらしいよ。天馬がお金出して兵頭十座を雇ってるとか、バックにヤクザがいるとか……」
「親の七光りだけじゃ足りないって感じ? 所詮天馬もお高くとまってる芸能人ってことだね」
ショックだわあ。
もうファンやめようかな。
え、あんたファンだったの。
ねえ、帰りに寄りたいお店があるんだけど。
やばい、スマホの充電きれそう。
笑い声とぱたぱたと廊下を走る平たい音が、まどろんだ放課後の空気に溶けて、遠ざかっていく。
怒りとも呆れともつかない、なんとも言えない気持ちになる。
強いて言えば、不快。いや、「悲しい」がしっくりくるかもしれない。
自分のことはともかく、十座を悪く言われて、とても悲しくて、悔しい。そして、なにも言い返せなかった自分が情けない。
放課後の他愛ない会話だ。
天馬は運悪くその場に居合わせてしまった。
ただの偶然。
学校という大きな集団ではよくあることで、気にすることはない。明日になれば彼女たちはそんな会話をしたことすら忘れているだろう。
けれど、十座へのあからさまな悪意を目のあたりにして、天馬は踊り場から足を動かすことができなかった。
「天馬、」
はっとして振り向くと、階段を数段上った先に十座が立っていた。
学ランの前ボタンを全開にして、片手で鞄を肩に担ぎ、もう片方の手をポケットに入れた姿で天馬をじっと見下ろしている。
磁石みたいに合わさった視線を逸らすことが出来ない。二階の廊下の窓を背に、丁寧にセットされたオールバックの髪がうっすらと夕焼け色に染まっている。
いつからそこにいたんだろう。
彼女たちの会話を十座は聞いていただろうか。
なぜか天馬が焦ってしまい、返事にまごついてしまう。
「教室にいねえと思ったらこんなとこにいたのか。早く行くぞ」
なにごともなかったかのようにとんとんと階段を下り、天馬の横を通り過ぎる。踊り場からは長い脚を伸ばして一段飛ばしだ。
そんなに早く下りたら彼女たちに追いついてしまうかもしれない。
慌てて十座を追いかけると、先ほどまで噂話に興じていた生徒たちの姿はなく、静かな廊下を歩くのは二人だけ。
下駄箱で靴を履き替え、校舎から出てもお互いむっつりと口を閉ざしたままだった。
夕暮れの帰り道を一歩先の地面ばかり見ながら歩いていると、ふと十座が呟いた。
「悪いな」
「えっ……」
なにを言われたのか一瞬分からなかった。
「なんかごちゃごちゃ言われてただろ、俺のせいで……。大丈夫か?」
なんでアンタが謝るんだよ。噂が本当だって認めてるみたいじゃないか。
女子生徒たちには感じなかった怒りがふつふつとわいてきてた。
自分だって失礼なことを好き勝手言われたのに、どうして俺の心配なんかしてるんだよ。なにが「俺のせい」だよ。それじゃまるで、全部アンタが悪いみたいじゃないか。
言いたいことは山ほどあったけれど、ようやく口にした言葉はひどいものだった。
「心配されなくてもあんなの気にしてない」
どこか突き放したような口調になってしまった。行き場のない憤りが天馬の中でぐるぐると渦巻いている。
「そうか……。悪いな」
だからどうしてアンタが謝るんだよ。
口にしたい衝動を渦巻いた感情と一緒に飲み下すと、胸の奥がひりついて思わず泣きそうになる。
十座さんはなにも悪くないだろ。
ちらっと横目で十座を仰ぎ見れば、切れ長の目がじっと前を見据えている。
怒っているのか、困っているのか。それとも呆れているのか。その表情からは読み取れない。
日が傾くにつれてあたりは薄暗くなり、ぽつぽつと空に浮かぶ街灯が心許ない。
ひんやりと近づく夜の気配に気分まで沈んでくる。
寮に着くまでが永遠に感じられた。
「馬鹿じゃないの?」
真っ白な羽を一枚一枚縫い付ける手を止めずに、幸が言い放った。
「ば、馬鹿とはなんだよ!」
「もう~二人とも喧嘩しないで欲しいッス」
新生冬組の演目のテーマは『天使』。MANKAIカンパニーにとって新しいタイプの演目のうえに、GOD座とのタイマンACTという大勝負のおまけつき。幸と太一も気合いを入れて衣装を作っており、天馬は彼らの邪魔をしないように万里と十座の部屋へ避難するのが常だった。
しかし、最も気兼ねなく訪れていた部屋は、今や最も居心地の悪い場所になってしまった。
万里は至の部屋でゲームをすることが多く、そうなると十座と二人きりなってしまう。もちろん気まずい。喧嘩しているとか、むかついているとか、そういうわけではなく、十座と顔を合わせると嫌でも噂のことを意識してなにも言えなくなる。
じわじわと追い詰められるような沈黙より、ミシンの音のほうがマシだ。
今夜も自分のロフトベッドでドラマの台本を読んでいると、「どうせ暇なんだから手伝ってよ」と型紙と鋏を渡された。
「天チャン、最近十座サンとなんかあったんスか?」
作業中の雑談で太一が心配そうに尋ねてきたことから、天馬は先日の階段での出来事をすっかり話してしまった。
十座へのおとなげない対応を含め、心の内を明かすと多少胸のつかえは取れたが、幸から返ってきたのは「馬鹿」という辛辣な言葉だった。
「これだからポンコツは……。そこは『心配してくれてありがとう』って言うのが普通でしょ。なんでそんな簡単ことも言えないの?」
「言おうとしたんだよ! ……ただ、ちょっと口が滑っただけだ」
「ポンコツすぎ」
「うるさい!」
「二人とも落ちついて~」
天馬と幸の間に挟まれている太一が悲鳴をあげる。
「……まあ、そういう心ない噂って学校でありがちだよね」
黙々と下を向いて作業する幸が言った。
声のトーンが心なしか低い。
「俺もスカート姿をからかわれたりとか、今でもよくあるし。自分の好きな服着てなにが悪いんだって思うから相手にしてないけど」
「幸チャンはどんな格好でもすげー可愛いっスよ!」
「そんなの当たり前。だって自分が似合う服は俺が一番よく分かってるから」
幸は強い。それに、いつだって自分の感性に絶対的な自信を持っている。好きなものを好きとはっきりと言えるし、それが人と違っても好きを貫きとおすことができる。
天馬にはそんな幸の気持ちがよく理解できた。
自分も俳優の仕事にプライドを持って挑んでいる。なにより演じることが好きだから、誰になにを言われようと芝居を続けることを迷ったことはない。
親の七光りとか俺様役者などと言われても、根本的に負けず嫌いなので、だったら最高の演技を見せてやろうと逆にやる気がでた。
周りの声ばかりにとらわれて、自分を見失いたくない。
「幸チャン、かっこいいッス。俺っちは噂とか気にしちゃうタイプだからなあ」
「なんかさ、最初は顔も似てないしあんまり思わなかったけど、テンプレヤンキーって椋にそっくりだよね。人の心配ばっかりしてさ」
「確かに、むっちゃんも十座サンも超優しいッスよね。さすがいとこって感じがするッス」
「バカ犬も見習ったら?」
俺っち優しくないッスか、と涙目で幸に詰め寄る太一を見ながら、天馬はそうかと合点がいった。
十座は優しい。というか、優しすぎるのだ。
他校生に絡まれた時も、自ら前に出て天馬をかばってくれた。下手したら彼が殴られていたかもしれないのに。他人が傷つくのをひどく恐れ、だったら自分が身代わりになればいいと思っている。
そんなの、自分勝手じゃないか。
助けてくれなんてひと言も言ってない。頼んでもいないのに、俺のせいであの人が傷ついたり、悩んだりするなんて、気分が悪い。
またあの時の憤りがぶり返してきて、鋏を持った右手に思わず力が入った。
ぴりっとした痛みが指先に走る。
「痛っ、」
「えっ、指切ったの?」
布をおさえていた親指の腹に刃があたってしまった。わずかに切れて血が滲んでいるが、幸いそんなに深い傷ではなさそうだ。
中断した作業に戻ろうとするが、やはり十座のことを考えてしまって集中できない。立ち上がって、「布を汚したらまずいから洗ってくる」と二人に告げて部屋から出た。
すっきりしない苛立ちを吐き出すように、大きくため息をつく。十座のことを考えると、苦しくなったり、イライラしたり、まるで嵐のように心がかき乱される。
こんな気持ちになるのも全部あの噂のせいだ。
すうっと息を吸えば冷たい風が肺を満たした。
気分転換にキッチンでなにか飲もうと、階段を降り、中庭を通り過ぎて屋内に入る。すると、そこには今まさに天馬の頭を悩ましている人物がいた。
「十座さん、」
呼びかけてからしまったと思った。
紺色の厚手のパーカーを着た十座が振り返る。
中庭からの扉はそのまま玄関ホールに繋がっていて、スニーカーを履いた十座はこれからどこかに出かけるらしい。
「天馬、どうした?」
あきらかな戸惑いが顔に浮かんでいる。
「あ、作業の休憩で……」
「……じゃあ、息抜きにコンビニでも行くか?」
どこかバツが悪そうに誘うから、無下に断ることはできなかった。
指先の血はとっくにとまっている。
衣装作りは天馬がいなくても支障はないだろう。もとより針に糸も通せないのだから、さっきまでの手伝いも役に立っていたのかどうか。部屋で鬱々としていた自分への幸なりの気遣いだとしたら、年上としてちょっと恥ずかしい。
夜のコンビニへ向かう道中も、あまり会話は弾まなかった。
一番の原因は、隣を歩く十座の髪が下りていることだ。
無造作に下ろした前髪が目元を隠し、険のある顔つきをどこか幼く見せている。いつもと違う雰囲気にドキドキして落ち着かない。
イライラではなく、そわそわした感じ。痛みより、もどかしい感じ。俺ってこんなに忙しない人間だっただろうか。
「さっき言ってた作業って冬組の衣装か?」
コンビニの看板が見えてきたあたりで、ぽつりと十座が問うてきた。
「ああ。幸も太一もすげえ頑張ってる。俺は役に立ってんのか微妙だけど」
しかめ面で答えると、ふっと十座が笑った。
十座の笑い方には癖があって、顔全体を使うというより、口の端を少し上げて静かに笑う。その時、本人が自覚しているのか分からないが、射抜くような鋭い双眸がふわっと柔らかくなるのだ
優しく、なにかを慈しむような笑み。胸がぎゅっと掴まれて、どうしてだか泣きたくなる笑み。
最恐ヤンキーの素顔を垣間見て、それを知っているのが自分だけだと思うと、大切な宝物のように誰にも見せたくない。その一方で、あんなひどいデマを流されるぐらいなら、彼のことをもっとみんなに知って欲しいと思う。
ちぐはぐで、矛盾している。
「こっちの部屋にあんま来ねえからどうしたのかと思ってた」
気にしてくれていたのかと思うと、嬉しいような申し訳ないような気持になる。
なにを言えばいいのか迷っているうちに、真昼の明るさをたたえたコンビニの駐車場に足を踏み入れていた。車は一台も止まっておらず、円筒型の灰皿の周りで数人の若者が雑談している。
見た目は同じ歳ぐらいだろうか。肩を小突きあったり、互いに軽く足蹴りしたり。誰かが冗談でも言ったのか大きな笑い声がひろがった。まったく周りを気にする様子はない。
うるさいな、と不快も露わに見やると、リーダー格と思われる体格のいい男と目が合った。
相手の「おっ」という驚いた顔。彼につられて他の男たちもこちらを見てくる。
帽子もサングラスもしていない。
夜だから誰にも会わないだろうと油断していた。
「天馬、これ被ってろ」
急に視界が真っ暗になった。
頭からばさっと被されたのは十座が着ていたパーカーだ。天馬が着る服よりも一回り以上大きいサイズで、頭だけでなく腰から下まですっぼりと隠れてしまう。
「ちょ、十座さん! これじゃ前が見えない……」
とにかく視界を確保しようとフードに手をかけたが、今度はその手をがしっと掴まれて、引きずられるように店内へ連れ込まれた。
入店の音楽と同時に、ふわりと暖かい空気が身を包む。
「いきなりびっくりするだろ!」
フードを取って十座の顔を真正面から見据える。
「外にいた奴らがお前のことをじろじろ見てただろ。スマホを手に持ってたし、とにかく顔を隠したほうがいいんじゃねえかと思って……」
「だからって急すぎる!」
「……悪い」
ほら、また謝る。
そして、天馬はまた「ありがとう」も言えなかった。
十座はいつだって他人ばかりを優先させる。相手の気持ちを真っ先に思いやって、自分のことは二の次だ。
それが優しさから来るものである分かっている。分かっていても、嬉しくない。
心配されることが嫌なのではない。
優しいところも嫌いじゃない。
ただ、十座が自分自身を蔑ろにしているようで許せない。
「もういい」
これ以上入口付近で立ち止まっていては迷惑だ。肩からずり落ちるパーカーを脱いで十座に押しつける。
あえて顔は見ない。目が合えばきっとまたなにも言えなくなる。苦しくなる。立ちすくむ十座を置いて、天馬はコンビニを後にした。
後ろを振り返らず、寮に向かって夜道をずんずん歩いて行く。
大股で歩くのが早足になり、いつの間にか小走りへと変わる。はっ、はっ、と息を吐く音がやけに響いて耳障りだ。
冷気が頬を掠め、乾いた風が目に染みて瞬きをすると涙がこぼれた。
耳朶も、指先も、ひりひりと痛い。
鋏で切った傷口からまた血が出ているのかもしれない。でも、そんな傷なんて大したことない。
十座が学校の階段で聞いたあの陰口に比べたら。
俺になにができるだろう。
いつも隣にいて自分を守ってくれる人が、どうしたら悲しまないでいてくれるだろう。
この気持ちを天馬は知っている。
言葉が出ないくらい苦しいのも、側にいてこんなに胸が締めつけられるのも、笑顔を向けられて泣きたくなるのも、十座のことが、好きだからだ。
自分の気持ちに気づいてしまえば驚くほど冷静になれた。好きになった相手が同性だという戸惑いはあまりない。
好きなものは好きだ。芝居への情熱と同じで、周りがどう言おうとも、自分の気持ちに正直でいたい。
主演ドラマの番宣のために朝の情報番組に生出演し、井川の運転する車の後部座席でうとうとしながら学校に着くと、すでに校内は昼休みだった。
太一からは屋上にいるとLIMEがきていた。教室には行かずにそのまま直行すると、
「十座さんは?」
「それが、LIMEの返信がないんっスよ」
臣特製の弁当を頬張る太一が言った。
鞄をコンクリートの地面に置いて太一の横に座る。まだ耐えられる寒さだが、そろそろ屋上でのランチも終わりの時季が近づいてきた。
「今日は一緒に登校してないのか?」
「俺っち今朝は寝坊しちゃって」
深夜まで衣装を作っていたのだろう。早々に就寝した天馬は彼らが何時まで起きていたのか知らないが、夢うつつのなかでミシンの音がぼんやりと聞こえていた。
「十座サン、なんかあったんスかね?」
「俺が知るわけないだろ。はやく弁当食わないと昼休み終わるぞ」
太一が美しい断面の卵焼きや甘いソースがかかったミートボールを急いでかき込む。こんなに美味しそうに食べてもらえば、弁当を作った臣も本望だろう。
仕事の予定が詰まって遅刻と早退が続いており、ここ数日十座と顔を合わせていない。なにが起きたのか不明だが、なぜか嫌な予感に胸がざわついた。
「太一、悪い。職員室に呼ばれてたの忘れてた」
鞄を肩にかけて立ち上がる。
「わはっはっふ」
太一が頬をいっぱいにしながら答えた。
もちろん職員室に行くのは口実で、十座を探すつもりだった。三年の教室に行こうかと思ったが、天馬が十座を探しているとわかれば、また変な噂が流れるかもしれない。
階段を下りながら教室に戻る生徒たちの背中を追い越し、ひとまず一階までたどり着くと、天馬は十座が行きそうな場所を思い出そうとした。
思い出そうとして、途方に暮れた。
教室以外で、十座がいつもどこでなにをしているのか知らないのだ。
学校での十座をなにも知らない。
そのことが、また天馬の心を苦しくさせた。
広い校内を見て回るのは時間がかかる。昼休みが終わるまでに見つからないだろう。
天馬はむやみに探すのを諦めてスマホを取り出した。
『学校来てるのか?』
LIMEを送ると、意外にもすぐに既読がついた。しかし、返信はない。
『どこにいるんだ?』
今度も既読になるがしばらく待っても返信がない。
天馬はじれったさに苛立ちながら通話ボタンを押した。
きっと出ないだろうな。
そう思っていたが数回目の呼び出し音でつながった。
『……十座さん? なにしてんだ? 太一も心配してるぞ』
無言の返事。廊下で通話をしている天馬にいくつもの好奇の目が刺さる。しばらく沈黙が続き、
『……校舎の裏だ。花壇のある……』
校舎の裏は住宅地と隣接している一面が白い壁で囲まれている。そこは雑木林のようになっていて、片隅に煉瓦で仕切られた花壇があった。
すぐ行く、とだけ言って一方的に電話切った。
誰も手入れなどしてない花壇だ。なんでそんなところにいるんだろう。不安がひたひたと胸を満たしていく。
校舎の裏、茶色の土がむき出しになった花壇の端に十座は腰かけていた。両足を大股に開き、その間の地面をじっと見つめ、俯いた横顔は乱れた髪で隠れている。
十座の前に駆け寄り、天馬は切羽詰まった声で呼びかけた。
「十座さん……」
顔を上げた十座と目が合って、思わず息を呑んだ。
頬が腫れ、固まった血が口元にこびりついている。十座が唇を親指で拭うと、切れたところからまた血が流れた。よほど強く顔を打ちつけたのか、こめかみの皮膚がめくれて赤くなっていた。
「そ、その傷どうしたんだよ? 保健室行かないと……」
「大したことねえよ」
「血が出てるのに大したことないわけないだろ!」
「こんなツラで校内に入ったら周りが迷惑だろ。びびらせるだけだ……。別に痛くねえし、放っとけば治る」
こんな時まで周りのことを気にするのか。
「アンタは、また、そうやって……」
それ以上、言葉を続けられなかった。怒りを通り越して、圧倒的な切なさがこみあげてくる。
どうして全部自分が悪いみたいな顔をするんだよ。
そんなのは優しさなんかじゃない。
誰も自分を分かってくれないと、諦めているだけだ。
「……誰にやられたんだ?」
ようやく放った問いに、十座は決まり悪そうに目を伏せた。癖の強い髪につむじが隠れている。いつも見上げているばかりで知らなかった、時計回りのつむじ。
「一緒に行ったコンビニに柄の悪い奴らがいただろ。今朝、登校中に待ち伏せされてて、喧嘩をふっかけられた。俺は覚えてねえが、随分前に一度やりあったことがあるらしい。まあ、こういう因縁をつけられるのはよくあることだ……」
コンビニ前で騒いでいた男たちだ。天馬ではなく、十座のことを見つけて驚いていたのか。喧嘩に負けてからずっと根に持っていたのだろう。
「よくあるって……」
「喧嘩ばっかりしてきたツケだな」
薄く笑いながら十座が言った。いつもの笑い方じゃない。顔が見えなくてもそれだけは分かった。
そんなこと言うなよ、と怒ることは簡単だ。
けれど、今ここで言うのはそんな言葉ではない気がする。もっと、なにか、十座に伝えたいことがあるはずだ。
自分の中に確かなかたちとしてある感情を、どうやって伝えればいいのだろう。
もどかしくてしかたがない。
「十座さん、立てるか?」
両膝に置かれた手を取ると抵抗もなく十座が立ち上がった。両手の甲は少し擦れているが特に目立つ傷はない。
十座はやり返さなかったのだ。
手を出せば劇団に迷惑がかかると思って。罵倒され、殴られ続けた十座を想像し、やりきれなさに打ちのめされる。
向かいあって、傷だらけの顔を見上げた。
「天馬」
「な、なんだよ」
自分から話しかけようとしたところで、逆に名前を呼ばれて動揺してしまう。
「目に隈ができてるな」
だから、どうして。俺のことはいいんだよ。
繋いだ両手をぎゅっと握ると、思いの外強い力で握りかえされた。十座が「ん?」と不思議そうに目だけで問うてくる。
「……夜、あんま寝れてない」
ミシンの音で眠りが浅いのだ。今朝は起きるのが早かったから余計隈が目立つのかもしれない。
「じゃあ、今日はこっちの部屋で寝るか?」
答える代わりに、両手をほどいで十座の背中に腕をまわした。
本音を隠して、自分を隠して、我慢ばかりする人を、とても愛しく思う。この人のことを自分だけは分かりたいと思う。
例え、十座が天馬を拒絶したとしても。
「天馬、誰か来たら……」
「俺は誰に見られても気にしない」
そうか、と小さな呟きが落ちてきた。十座がおずおずとぎこちなく天馬の背に腕を伸ばし、優しく抱きしめる。
昼休みの終わりを告げるベルが聞こえた。
お互い想い合っているのに、付き合うという選択をするまで途方もない時間がかかりそうな二人だなぁと思います。