サイン

 エスカレーターを降りて右に曲がると革製品をメインに扱う雑貨屋がある。待ち合わせ場所であるメンズスーツの店は、その雑貨屋の隣にあるはずだった。けれど、天馬がたどり着いたフロアには、ピンクやブルーのスカートや真っ白なレースでたっぷり飾られたブラウスを売っている店ばかり。買い物をする女性客は、頭に大きなリボンを着け、転びそうなほど高いヒールを履き、ヒラヒラと揺れるスカートをこれでもかと膨らませて歩いている。天馬が浮いているのは間違いなかった。
 認めたくはないが、デパート内で迷ってしまったらしい。メンズ服を売っているフロアに戻りたいが、店員に尋ねるのも気が引けるし、自分が皇天馬だとバレたら恥ずかしい。帽子を目深に被り、ぶつからないように人混みを縫うように歩く。待ち合わせ相手に連絡をしようとスマホを取り出すと、タイミングよく電話がかかってきた。
『天馬、いまどこにいるんだ?』
「それが、よく分からないんだ。女性だらけのフロアで気まずくて仕方がない」
『近くになにが見える?』
「そうだな……でかいケーキのディスプレイがある」
『分かった、すぐに行く。そこから動くなよ』
 さすがにこの派手な格好をした女性客のなかをむやみやたらに歩き回る勇気はない。
「すまない、十座さん」
 十座は笑いながら「大丈夫だ。慣れてるからな」と言って電話を切った。
 このデパートには昔から何度も来ている。店の場所も事前に確認した。それなのにまさか迷うとは思わなかった。
 どこか一人になれる場所はないかと辺りを見回す。真っ赤なチェックのスカート、ピンクのハートが無数にプリントされているブラウス、十座が見たら目を輝かせるであろう巨大なケーキのディスプレイ。フロア全体がまるでおとぎの国のようだ。そんな華やかな空間から逃げるように、天馬は店舗の間を通る小さな通路に入った。
 自販機と革張りの二人掛けソファーが置いてあり、奥にはスタッフ専用の出入り口がある。通路はフロアの喧騒から切り離され、明るい電子音が延々と流れる店内BGMは遠く聞こえるだけだ。ここなら誰に見つかることもないだろう。柔らかな革のソファーに座るとようやくほっとできた。念のため、帽子とサングラスは外さないことにする。
「ねえ」
 という呼び掛けと同時にソファーが僅かに沈んだ。隣に目を向けると、白いワンピースを着た少女、じっと天馬の顔を見つめている。
 小学生ぐらいだろうか。まっすぐに伸びた長い黒髪にワンピースと同じ白いレースのカチューシャを付けている。
「な、なんだ?」
 少女の視線から逃げるように、とっさに帽子のつばを掴んで下を向いた。
「あなた、猫さんでしょ?」
 どこからどうみても二足歩行の人間だ。過去に、人間以外の動物だったこともない。少女の問いかけの意味が分からず、天馬は反応に困った。
「前に白い耳の猫さんたちと、おいしいにぼしを見つける旅にでてたよ」
「白い耳のって……あぁ、『にぼしを巡る冒険』のことか? あれは舞台上での役であって、オレは普段から猫なわけじゃないぞ」
「でも同じオレンジ色の髪をしてるじゃない」
 帽子の後ろからのぞく襟足をおさえる。これだけで天馬のことをミケだと分かったのか。この少女の前では変装も無意味に思え、天馬は愛用の帽子とサングラスを外した。
「やっぱり。そのきれいなオレンジ色の髪、ぜったい猫さんだと思った。ねえ、猫さんにお願いがあるの」
 そう言って少女は肩に提げている鞄の中からなにかを取り出した。「これ」と渡されたのは、アニメキャラクターが表紙に描かれたお絵描き帳と蛍光カラーで描かれた星が散りばめられたなんともファンシーなペン。なるほど、と天馬は少女の意図を理解した。
「なんだ、オレのサインが欲しいのか?」
「違う。お母さんにお手紙書いて?」
 小さな子供には独特の世界がある。女の子ならお姫様になって本当に王子様と結婚できると信じているし、男の子なら怪獣を倒せるヒーローになれると思っている。そして、目の前の少女は天馬が猫であることを疑わない。そこまでは分かる。子供の思い込みとして片付けることができる。しかし母親宛の手紙とはいったいどういうことだ?
「ちょっと話についていけないんだが、今日はお母さんと一緒じゃないのか?」
「お母さんとはずっと前から会ってない」
「そうか……お父さんは?」
「さっきまで一緒にいたよ。でもお仕事の話があるからってどっか行っちゃった」
 少女が小さな足をぶらぶらさせる度に、白いワンピースの裾がふわふわと揺れる。母親と会っていないということは、離婚か別居か。もしかしたら死別かもしれない。小学校低学年にしか見えない少女には、母親の不在がまだ理解できないのだろう。天馬はお絵描き帳を開くと慣れた手つきで自分の名前を書いた。
「ほら、これでいいか。猫の国の住人は人間に手紙は書けないんだ。だから特別にサインで我慢してくれ」
 下を向いていた少女の顔がぱっと明るくなる。
「これ、猫さんの名前?」
「そうだ。『皇天馬』、覚えとけよ」
「すめらぎてんま」
「猫の冒険の話、楽しかったか?」
「すっごく面白かった。お母さんとお父さんと一緒に観に行ったんだよ。帰りに美味しいケーキも食べたの」
 天馬のサインを指でなぞっていた少女は、お絵描き帳を勢いよくめくり、ページいっぱいに描かれた落書きを見せてきた。
「これが白い耳の猫さん。しゃべり方が可愛かった。これが、ピンクの髪の猫さん。かしこくてかっこよかった。でも一番はやっぱりオレンジ色の髪のあなた」
「へえ、それは嬉しいな」
「だって、お母さんが一番好きって言ってた。猫さんのサイン、お母さんに渡したいな。お手紙書いたらお返事くれるかな? 前に書いたやつは渡せなかったの」
「それは……」
 天馬はそれ以上言葉を続けることができなかった。安易に「もちろん」と言って、この小さな女の子を期待させてはいけない。もう少し成長すれば、母親に会えない理由も分かるだろう。期待した分だけ、そのときの悲しみと心の傷が深くなる。天馬にはそんな残酷なことはできなかった。
「お母さんにはなんて手紙を書いたんだ?」
「寂しいからはやく帰って来てって。お手紙をお父さんに渡したら、すごく怒られたの。だからもう書いてない。お父さん、なんであんなに怒ったのかな……」
「きっと、お父さんも寂しいんじゃないか?」
「お父さんも?」
「あぁ、大好きな人と離れてしまうのはどんな人でも悲しいからな」
「猫さんも?」
「えっ、オレか? そうだな、もしそんなことになったら、つらいかもな」
 いままさにデパートで離れ離れになり、道に迷った天馬を探してくれている十座の顔を思い浮かべる。
 ある日突然、十座がいなくなってしまったら。
 なにかのきっかけで関係が壊れ、もう二度と会えなくなってしまったら。
 天馬よりも大切な人ができてしまったら。
 十座が離れていってしまう―。
 そう考えるだけで心がすっと冷たくなって、暗い穴に落ちてしまう気がした。
「そっかぁ、お父さんも寂しいんだね……」
「天馬?」
 聞き慣れた声が天馬の名前を呼んだ。顔を見上げると通路の入り口に十座が立っている。
「十座さん」
「無事に会えてよかった。このフロアを俺だけで歩くのはちょっとな」
 居心地が悪そうにきれいな形の眉をひそめて言った。
 たしかに十座の風貌はこの空間で天馬以上に浮いている。このフロアに足を踏み入れるのは勇気が必要だっただろう。わざと迷ったわけではないとはいえ、悪いことをしてしまった。
「天馬、なんだそのちっこいの」
「小さくないもん……あっ、お父さんだ!」
 少女は小さく叫ぶとお絵描き帳を鞄に入れて、ぴょんっとソファから降りた。
「すめらぎてんまさん、ありがとう。お父さんのところに行くね」
「あ、あぁ。気をつけろよ」
 少女はくるっと天馬に背中を向けるとあっという間に十座の横を走り抜けていく。
「天馬、大丈夫か?」
「あぁ、サインを書いてやってただけだ」
「ずいぶんかわいいファンだな」
「オレの人気っぷりが分かるだろう?」
 そうだな、と十座が笑う。普段は険しい表情をしている十座の、ふっと口角を上げて笑う顔が、天馬は一番好きだ。
 ソファーから立ち上がり、いつものように帽子を被ってサングラスで顔を隠す。するといきなり十座に腕を掴まれ、そのまま有無を言わさず手を繋がれた。はっとして手を振りほどこうとしたが、さらにぎゅっと強く握られる。
「誰も見てない。ほら、行くぞ」
「じゅ、十座さん!」
 そのまま十座に引きずられるように通路を出てフロアを抜けていく。女性客ばかりのなかを男二人が歩いているだけで変なのに、手を繋いでいたらさらに悪目立ちだ。しかし十座の力に勝てるはずもない。天馬は早々に抵抗するのをやめた。
 先ほどの少女はちゃんと父親に会えただろうか。この人混みでは確かめるのも難しい。
十座が痛いくらいに天馬の手を握っている。まるで放したらもう二度と会えなくなるみたいに、切実なほどきつく指を絡ませてくる。
「十座さん、オレはいなくなったりしないからな」
「あぁ、分かってる。それに、いなくなっても俺が見つける」
 前を歩く十座の背中へ飛びつきたくなる衝動をぐっとこらえる。
 どこにいても自分を見つけてくれる。どんなに離れていても自分のことを思ってくれる。そんな人が側にいる。それはとても幸せなことだ。
 あの少女は、いつかまた舞台を観に来てくれるだろうか。そのときも、こうやって十座の横で笑っていられるだろうか。不確かな未来に押しつぶされないように、天馬は十座の手を強く握り返した。

兵皇+幼女の組み合わせが好きです。
十座は子ども好きなのに子どもから好かれないけど、良い父親にはなりそうです。
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