手をつなぐ
補習を終えて校舎から出ると、薄墨色の空が広がっていた。朝の晴天が嘘のようだ。
天馬は重たげに流れる雲をじっと見つめながら、井川を呼ぶか一人で寮まで帰るか考えあぐねていた。
「あ、皇天馬」
ふいに後ろから名前を呼ばれた。驚きとちょっとの興奮が混じっている声。
反応するかどうか迷ったが、相手にするのが面倒で聞こえないふりをした。
「えっ、どこどこ? あ、本物だ。なにしてんのかな」
「迎えの車待ってるんじゃない?」
「ねえ、声かけてみようよ」
O高に入学して半年が経つ。天馬を遠巻きに眺める生徒は多いが、彼女たちはそうではないらしい。声をかけて、握手を求め、きっと写真まで撮りたいと言い出すはずだ。
そして天馬が断れば、態度が悪いだのお高くとまってるだのとSNSに書き込む。いつだって芸能人は羨望と批判の間で生きてるんだよな、とこういうときに実感する。
声をかけられる前にこの場を去ってしまおう。
天馬は井川の迎えを諦めて、校舎を背に歩き出した。
寮までは歩いて十五分。きっと雨が降らないうちに帰れるはずだ。
遠くで雷が鳴った。低い咆哮のような音に思わずびくりとなる。
怖くない、雷なんて。オレはもう高校生だぞ。
そう心の中で強がっても、天馬の体は正直で、段々と小走りになってしまう。
鞄を両手でぎゅっと抱きしめながら、記憶している道順を呪文のように唱え、雷から逃げるように家路を急いだ。
校門前の信号を渡って、左に曲がる。バス停を越えて、三つ目の角を右。公園に沿って真っ直ぐ行くと、また信号がある。渡って、次は左に曲がる。突き当たりにO高生が溜まり場にしているコンビニの看板が目に入った。
コンビニを過ぎたら寮の赤い屋根が見えるだろう。
ようやく歩みを緩めて上がった息を整える。
大きく息を吸ってゆっくり吐く。見上げれば、先ほどよりさらに濃い灰色の空が広がっていた。
やはり寮に着く前に雨が降ってきてしまうかもしれない。
コンビニでビニール傘でも買おうかと思い視線を前に戻すと、目の前を見知った人物が歩いていた。
「十座さん」
声をかけると、十座は驚いたように振り向いた。
「天馬か。なにしてんだ?」
「補習帰り。十座さんは?」
駆け寄って尋ねたが返事がない。
黙ったまま、背の高い十座に見下ろされるのは結構な威圧感だ。
しかもぶすっと無口を決め込んでいる。
「十座さん?」
「これを……買いに来た」
見せられたコンビニ袋の中にはシュークリームとショートケーキが入っていた。
そう言えばこの人、甘いものが好きなんだっけ。
しかも周りにはそれを隠しているらしい。返事がなかったのは、コンビニスイーツを買っている姿を天馬に見られて気まずかったのだろう。
「……天馬も食うか?」
苦しそうな顔をして訊くから思わず笑ってしまった。本当は全部一人で食べたいだろうに。優しいのか、照れ隠しなのかよく分からないが、そんな顔をされてはこちらとしても食べる気にはならない。
「いや、大丈夫だ。それより早く帰ろう。雨が―」
天馬が言い終わらないうちに、また遠くのほうで空の呻く音がした。
今度はかなり大きい。
十座がいることも忘れて、小さく叫んでしまった。
「雷、怖ぇのか?」
「ち、違う! ちょっとびっくりしただけだ!」
「俺の弟も雷が落ちるたびによく泣いてたぞ」
「だから怖くないし泣いてない!」
本当は、幼いころから雷の音が嫌いだった。
雨の夜、一人ぼっちで寝ている寂しさを思い出すから。
雷が鳴る大雨の日に限って両親は不在で、兄弟のいない天馬は、ベッドの中で一人目を瞑って耐えるしかなかった。
嫌いなだけであって、怖いわけではない。
そう、怖いなんて―。
追い打ちをかけるようにさらに大きな雷が後ろで鳴り響く。
背中からがぶりと食べられてしまいそうだ。
「やっぱり怖えんだな」
ふっと笑う十座と目が合う。
この人、こんな優しい顔もできるんだな。一瞬、その意外な表情に惚けてしまった。
「だから怖くないって言ってるだろ」
行くぞ、という声が聞こえて、あっという間に手頸を掴まれた。
十座が前で、天馬が後ろ。十座のほうが身長が高いから歩幅も大きい。当然、天馬は駆け足気味で十座のn後ろを追いかけることになる。
つながった手が温かい。
十座の弟もこんなふうに手をつないでもらっていたのだろうか。そう思うと胸がざわつくような、苦しいような妙な気持ちになる。
これはいったいどんな感情だろう。
「おい、十座さん」
「怖えんだろ。はやく帰るぞ」
「だからって手をつながなくてもいいだろ」
「じゃあ、はなしてもいいのか?」
それはそれで負けを認めるみたいでなんだか悔しい。なにと張り合ってるのか天馬自身よく分かってないけれど。
「別に、このままでいい。言っとくけど、十座さんがつなぎたいからつないでるだけだからな」
「あぁ、そうだな。また変な奴に絡まれたら大変だしな」
先日、天馬が数人の男子学生に絡まれたことを言っているのだろう。芸能人にはなにを言っても、なにをしてもいいと思っているタイプの集団で、共演した女優の連絡先を訊かれて断ったら殴られそうになった。
「あのときは助かった」
十座がとおりかかって、天馬のかばってくれなかったら大事になっていたかもしれない。
「あれぐらいなんともねえよ。これからも、なんかあったら言えよ」
手を引いている十座の背中をまじまじと見ると、同じ高校生なのに自分よりもはるかに逞しい。やはりO高最強ヤンキーの名は伊達じゃない。
守られてばっかりだな。
十座さんの背中に隠れてばっかりだ。
いつかオレも十座さんの手を引いて、かっこいいところを見せてやりたい。でも、十座さんが怖いものってなんだろう?
自分が十座の手を引く。そんな場面をまったく想像できなくて、きっとそんな未来はこないだろうと結論づける。
「もうすぐ着くぞ」
いつの間にか雷の音も消えていた。
湿った空気に土と樹木の匂いが混じる。甘ったるくてむせ返りそうだ。
雨が近い。
モノクロ映画のような灰色の空の下で、寮の赤い屋根がひときわ鮮やかに見えた。