トラウマ

 きつく閉まった蛇口を回すと、ホースから勢いよく水が飛び出した。
「うわっ」
「天馬くん、大丈夫?」
 隣で雑草を抜いていた紬が心配そうに言った。
「あ、あぁ。あっちから水をやればいいのか?」
 天馬は顔にかかった水をシャツの袖で拭いながら、桜の木に向かって指差した。
「うん。長いから中庭の端まで行けると思うよ」
 リールに巻かれた水色のホースの口をきゅっと摘まむと、冷たい流水が細い筋となって青空に放たれ、中庭の植物たちへ光る雨となって降りかかった。
 気持ちのいい夏の朝だ。やわらかな陽光を浴びて、目覚めたばかりの身体がゆっくりと覚醒していく。
 左右に腕を動かしてまんべんなく水を撒きつつ、背の低い花を踏まないように気をつける。どれも紬が愛情をこめて育てている花だ。細心の注意を払いながら中庭を歩く。
「紬さんはすごいな。あんなに荒れてた中庭が嘘みたいだ」
 水を弾いてきらきらと輝いている植物たちのなんと美しいことか。初夏の生命力に溢れている。
 天馬が入団した当初、手入れが行き届かない中庭は雑草が伸び放題だった。四季折々の花が咲くようなったのは、冬組が再結成され、ガーデニングが趣味の紬が入団してからだ。
「皆が手伝ってくれるおかげだよ。天馬くんも朝早くからありがとう。今日は仕事じゃないの?」
「今日はオフだ」
「そうなんだ。夜遅くまで稽古してたから、今日から撮影なのかなって思ってたんだ」
「いや、あれは」
 と天馬は言いかけて口を閉じた。
 劇団のルールで、稽古場を使うときはボードに名札をかけることになっている。誰が使用しているのか分かるようにするためだ。昨夜は天馬の名札しかかけなかったが、実は稽古場にはもう一人いたのだ。別に隠すようなことではないけれど、なんとなく言いづらかった。
「ただの自主練だ。暫くオフだから稽古量を増やそうと思って」
「そっか、高校生はもう夏休みだもんね。そう言えば、万里くんと十座くんが期末レポートが大変だって言ってたな。大学は一年目が一番大変だからねぇ」
 紬が何気なく言った十座の名に天馬はどきりとする。
 十座こそ昨夜一緒に稽古していた人物であり、現在進行形で天馬を悩ましている張本人だからだ。
 天馬は紬に気づかれないように小さくため息をついた。
昨夜の自主練も、二人で台本を読み合わせながら、台詞に体の動きを合わせていく、いつもどおりの稽古だった。天馬が気になったのは、最近どこか無理をしているような十座の姿だった。
「十座さん、最近無理してないか?」
 天馬が稽古中に訊ねると、十座は「大丈夫だ」と短く答えただけだった。
 大学に入学してからというもの、十座は稽古と学生生活の両立で忙しい日々を送っている。課題の締切りと集中稽古が重なると、徹夜をしてしまうこともあると言っていた。器用なタイプではないし、すべてに全力を尽くしてしまう十座の性格からして、両立はかなりしんどいはずだ。
 天馬もなにか力になってやりたいと思うが、十座はなかなか本音を言ってくれない。せめて二人で居るときぐらいは弱音を吐いたっていいし、天馬に頼って欲しい。そんなことで幻滅なんてしない。もどかしく思いながら、十座の心にどこまで踏み込んでいいのか分からなかった。 
「天馬くん、そんなに水をあげたら立葵が倒れちゃうよ」
 後ろから紬の声がして、いつの間にか腕を止めていたことに気付く。上から大量の水をかけられた立葵が少し斜めに傾いている。
「すまない。ぼーっとしてた」
「大丈夫? 足元のホースにも気をつけてね」
「あぁ。このホース、紬さんが買ったのか?」
「丞がホームセンターで探してくれたんだ。夏は日差しが強くて、じょうろだとあっという間に土が乾いちゃうから助かってる」
「丞さん、紬さんに対してけっこう過保護だよな」
 天馬が半ば呆れているのを知ってか知らずか、紬は「そうかなぁ」ととぼけた様子で黙々と雑草を抜いている。
 お互いが唯一無二であると公言して憚らない二人だ。他人がいくら言っても、その不自然なほど近い距離感を疑問に思うことはないだろう。
「ずっと一緒にいて不安になったりしないか?」
「不安? 不安にはならないなぁ。丞は誤解されやすい性格だから心配っていうのはあるけどね。天馬くんにはそういう人がいるの?」
「えっ」
 急に真意をつかれて、天馬は思わず水やりの手を止めた。ホースからボタボタと落ちる水がスニーカーを濡らす。しゃがんで草を抜いている紬は、縁が広い麦わら帽子を被っていて、どんな表情をしているか天馬には分からない。だんだんと強くなる日差しのせいで、背中がじんわりと汗をかくほど暑いのに、胸の奥がひやりとした。
「べ、別に……そういう訳じゃない。ただ、近くにいると分からなくなるっていうか、どこまで近付いていいのか悩むっていうか……」
 しどろもどろで答えながら、言わなくていいことまで言ってしまう。
これでは紬からの質問を否定するどころではなく、そういう人がいると全肯定しているようなものだ。うまく誤魔化せない自分が情けない。
「大切な人なんだね」
 立ち上がった紬が天馬のほうを見て言った。
 夏の青空と同じ色の瞳が、すべてを見透かすようにまっすぐ天馬を見つめる。
真剣なまなざしに、嘘をついてはいけないと瞬時に判断した。
「あぁ。どんなことでも力になりたいと思う。それぐらい大切な人だ」
 天馬が目をそらさずに言うと、紬の表情が緩んでいつもの優しい笑みが広がった。
「きっと相手も同じように悩んでるんじゃないかな。大切に思うからこそ言えないこともあると思うよ。天馬くんはどうしたいの?」
「オレは……」
 紬に問われて天馬ははっとした。昨夜の稽古場で、十座と似たようなやり取りをしたのだ。
 二人で自主練をする際は、天馬が出演したドラマや昔の舞台の台本を読みながら、ひとつひとつ気になる点を言い合うようにしている。昨日は天馬が主演した特別ドラマの台本を使った。
「『もう終わりだ。助からない』の台詞はもっと抑制した方が良くないか? いまの感じだと大袈裟すぎて白ける」
「そうか……絶望感に引っ張られると、どうしても身体の動きが大きくなるな。天馬だったらどうする?」
「オレがやったら意味ないだろ。十座さんの演技は十座さん自身が見つけないと駄目だ。十座さんはどう演じたいんだよ?」
 自分が演じた役だからこそ、十座には違う解釈で演じて欲しかった。いま思えば少しきつく言い過ぎたかもしれないが。
 十座は特に気にしている様子はなかったけれど、もっと違う言い方もできたはずだ。夏組を結成したばかりのころ、合宿中に心無い正論を吐いて、一成と気まずくなった思い出が甦る。
 もしかすると十座が本音を言えないのは自分のせいではないだろうか。
 稽古での会話を思い出しながら、そんな考えが天馬のなかで大きくなり、だんだん確信を帯びていく。天馬のなんでもはっきり言ってしまう性格が、十座の負担になっているかもしれない。
 そう思うと胸が苦しくなった。
「離れたほうがいいのかもしれないな」
 思わずそんな言葉が口をついた。ホースから流れ続ける水が、行き場所をなくして足元に水溜まりを作っている。
「離れたら駄目だよ」
 紬のあまりに強い口調に天馬は驚いた。
「紬さん?」
「俺が昔、大切な夢と友人を手放してしまったことは言ったよね? この劇団のおかげでもう一度取り戻すことができたけど、それは俺の運がよかっただけだよ」
 紬が過去に演劇から遠ざかり、親友である丞の前から姿を消したことは知っていた。オーディションに失敗し、自分の演技に自信を無くしてしまったことも。
「離れるのは簡単だけど、関係を元通りにするのは大変だよ。元通りなる保証もない。だから、天馬くんには諦めないで、その相手の人にぶつかっていって欲しいな」
 偉そうなこと言ってごめんね、と紬はこめかみを掻きながら遠慮がちに言った。
「そんなことない。ありがとう、紬さん」
 紬にとって演劇の世界に戻ることがどれだけ大変だったか、天馬には分かる。天馬も小学校の発表会で台詞が飛んでしまい、長い間ずっと舞台に立つことがトラウマだった。劇団の仲間に出会ってようやく克服できたのだ。
「さっきも言ったけど、きっと相手も悩んでるかもしれないから、一度ゆっくり話してみるといいかもね。大学生組ももうすぐ夏休みだし」
「あぁ、そうする。って、紬さん……」
 ふふ、と紬がいたずらっぽく笑った。
 この感じだと天馬が誰のことで悩んでいるのかはじめから分かっていたに違いない。
 この人に秘密を知られている団員は他にもいるのだろうか。本当に恐ろしい人だ。
 十座と話してどうなるか天馬には分からない。
 ぶつかって、その後どうなるだろうか。
 結局離れることになってしまうかもしれない。
 それでも、次に中庭に来るときは十座と一緒に水やりをしたいな、と天馬は思うのだった。

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