爪
「天馬くんってペンの持ち方がきれいだね」
向かいに座っている紬さんに言われて、計算式を書く手を止めた。
「そうか?」
「人差し指と中指の間にペンがきちんとおさまってる。あと、消しゴムのカスを床に落とさないよね」
「あんま気にしたことないけど……というか紬さんって本当に人のことよく見てるよな」
「あはは、気持ち悪かったかな」
そう言って課題を進めているオレの隣で苦笑いする紬さんこそ、ペンの持ち方がきれいだ。家庭教師をしている生徒のノートは赤ペンでていねいに添削されている。
「気持ち悪くはないけど、紬さんから見るオレってどんな感じかちょっと気になる。他になんか気づいたことあるか?」
稽古で指摘される芝居の癖と違って、普段の何気ない仕草は自分では気づきにくいし、人から面と向かって言われることも少ない。
「そうだなあ、ノートの取り方もきちっとしてるし、この前ちょっと目にした台本に入ってるマーカーもまっすぐだったよね。筆箱の中身もペン先が揃ってる。そういうとこに天馬くんの几帳面な性格が出てる気がするな。あとは、笑い方かな」
「笑い方?」
「ちょっと顔を傾けたあと歯を見せて笑うよね。こんな感じで」
「うわっ、似てるな」
自分のポートレート写真を見てるみたいでびっくりした。
さすが人間観察が特技なだけはある。
「すごいな。どうやったらそんな細かく観察できるんだ?」
「うーん、気づかれないように見るのがコツかな」
忍者じゃあるまいし気づかれないように見るのはさすがに難しいだろう。
「そんなの、紬さんレベルの達人じゃないと無理だろ」
「まずは身近な人から観察するといいかもね」
身近な人。同室の幸、は駄目だ。アイツはもの凄く察しがいいからすぐ気づかれる。夏組の奴らは距離が近いから観察してたらすぐバレる。あとは監督……はもっと駄目だ。真澄に殺される。
他人の視線に鈍感な人。
あぁ、あの人なら。
甘味をじっと見つめるあの人の横顔を頭に浮かべたら、思わずニヤついてしまって、紬さんに気づかれないように慌てて下を向いた。
まず、背が高い。がっしりした肩幅の割に腰が細い。あと脚が長い。総じて格好いい。
ここまで考えて、これじゃ観察じゃなくて感想だろと自分に飽きれてしまった。
夜の自主稽古で十座さんと二人きりになるから、この機会を使って観察してみようと思ったのに、頭を巡るのは十座さんの容姿を褒め称える言葉ばかり。
まあ、実際格好いいからな、この人は。
「天馬、いまのどうだった?」
稽古場の床に座っているオレに十座さんが訊ねてきた。
アクションシーンで気になるところがあるらしく、一連の動作をやってもらったのだが、オレが見てたのは十座さんの長い手足と無造作に乱れる前髪だったので、どうだったと訊かれても「かっこよかった」としか言えない。
「ま、まぁ、よかったんじゃないか? あとは、そうだな……悪い、もう一回やってもらっていいか?」
「それは構わねえが」
どこか腑に落ちない感じで十座さんはもう一度稽古場の真ん中まで移動した。
ごめん十座さん、次はしっかり動きを確認するから。
最初の動作は両手を胸の位置で構えて、相手の攻撃をかわしたあとに回し蹴り。十座さんは重心を右に持っていく癖があるんだよな。
腰を落とすときにふっと息を吐いて、止める。体を時計回りにねじって脚を蹴り上げると、セットしていない髪がふわっと浮かぶ。
稽古着の白いシャツの上からでも分かる背筋の逞しさに、思わず見とれてしまう。
そう言えばこの前バイクで高校まで迎えに来てくれたんだよな。
タンデムしたときの体温を思い出して、体がかっと熱くなった。
やばい、全然観察できない。
雑念をかき消してるうちに十座さんはの動作を終え、また「どうだった?」とオレに訊いてきた。
「問題ないんじゃないか?」
たぶんいま一番問題なのはオレの頭だ。人間観察なんて慣れないことをするんじゃなかった。
十座さんの顔をまともに見ることができない。
「そうか、あとはここの台詞も気になるんだが」
「えっ……」
台本を持って十座さんがオレの隣に座った。
こんな近くに座ったらオレの邪な考えがバレるんじゃないか。
胸が痛いくらいに鳴っている。
「ど、どこの台詞だ?」
「ここだな」
蛍光イエローのマーカーで線を引いた台詞を指差す。
あ、十座さんの台本に引かれる線もまっすぐだ。
そんなことを思ったあと、十座さんの手に目が釘付けになる。
観察半分、興味半分。
無骨な指先に、サクラ色の爪が伸びている。短く切りそろえられた爪は所々角張っていて、爪切りで適当に切ったんだろうなと分かる。
気になったのは、人差し指の爪の間が黒く汚れていることだ。
泥じゃないな。バイクの部品交換でもして汚れたとか?
じっと指先を見ていると、
「天馬、今日はなんつーか、見すぎだ」
「えっ」
台本から顔を上げると戸惑い気味の十座さんと目が合った。
「いや、これは、その、指だ、指。十座さん指が汚れてるぞ」
「ん? あぁ、さっきチョコ食ったからな」
十座さんがぺろりと指先を舐める。
舌が赤いな、と至極当然のことを思いながら、十座さんの口元から目が離せない。
「なんだ、天馬も食いたかったのか?」
十座さんが不思議そうに訊ねる。
オレが食べたかったのはチョコじゃなくて、アンタの爪を舐めたかったって言ったら、どんな反応をするだろう。
こんなに十座さんのことばっかり見てしまうなんて。これからもっと変なことを考えるようになってしまったらどうしよう。
身近な「ヒト」を観察するのはこれきりにして、明日から亀吉の観察をしようと、オレは心に決めたのだった。