二人の秘密
虎杖悠仁くんはクラスの人気者だ。
明るく快活でよく笑う彼を嫌う生徒なんていない。
運動神経は抜群。面倒な委員会や係の仕事をさりげなく手伝ってくれるから、同学年にファンがたくさんいる。男女問わず虎杖くんと仲良くなりたい生徒は多いし、俺もその一人だった。
ずっと遠くから見ているだけだった虎杖くんと話すようになったのは席替えがきっかけだった。
「数Iの教科書忘れちゃったから見せて?」
隣の席に座る虎杖くんに頼まれて、俺は耳まで赤くなった。
はじめて話しかけられた。嬉しさと戸惑いでどもりながら「い、いい、いいよ」と教科書を渡すと、虎杖くんは「これじゃ俺しか教科書使えないじゃん」とおかしそうに笑った。
お互いの机の端と端をくっつけると虎杖くんとの距離が思った以上に近くて、俺は叫び出す一歩手前だった。
「虎杖、教科書忘れんなよ」
と先生に怒られた虎杖くんは、「すんませーん」と軽くあしらったあと、「教科書、ありがとな」とこっそり俺に耳打ちしてきて、俺は完全にこの太陽みたいな男の子に心を奪われた。
アイドルが教室にいるってたぶんこんな気持ちだ。
席が隣同士だったからいろんなことを話した。
超マイナーなオカルト研究会に入っているのは、家族が病気で時間の融通がきく活動をしたいから。困ってる人がいるとすぐ助けたくなるのはおじいさんの影響で、病気なのはその優しいおじいさんなのだということ。好きな映画や漫画の話もした。虎杖くんが好きな映画を俺はあまり知らなかったけれど、漫画の趣味はびっくりするぐらい同じだった。虎杖くんは知る人ぞ知るようなコアな漫画雑誌を読んでいて、俺もこれから話題になりそうな作者や作品を見つけるのが好きだから嬉しかった。
人気者の虎杖くんとぱっとしない俺の小さな共通点。
真夏の太陽みたいに俺の世界を鮮やかに照らしてくれる虎杖くん。
でも、そんな彼がときどきぼーっと窓の外を眺めている。
その横顔に言いようのない陰がさしているのを知っているのは、隣の席に座る俺だけだった。
虎杖くんにはお兄さんがいる。
三年生の脹相先輩だ。この人は弟の虎杖くんとは違う意味で目立っていた。
背が高くて、無口で、無愛想。顔の左右を真一文字に横切る傷が、彼を他の生徒たちから遠ざけていた。
喧嘩したときの刀傷だという生徒もいれば、バイク事故で負った傷だという噂もある。虎杖くんが誰からも好かれている反面、脹相先輩は学校中の生徒だけでなく教職員からも恐れられていた。
そんな脹相先輩と俺は一度だけ話をしたことがある。
当時、俺は素行の悪い同級生からからかわれることが多かった。
暴力をふるわれたり、陰口をたたかれる、なんてことはなかったけれど、英語の音読のときにくすくす笑われたり、変なあだ名をつけられたりした。
そいつらにせがまれてお気に入りの漫画を渋々貸したら、「読んだから捨てといた」と言われたときのみじめな気持ち。頭のてっぺんまで怒りが湧き上がったけれど、俺は文句をいうことも反撃もできなかった。
どこに捨てたかは教えてくれなかった。だから、放課後になってから校内のゴミ箱をひとつひとつ確認して回ったのだ。
でも、見つからなかった。
なけなしの小遣いで買った新刊なのに。しかも特典カバー付きの初回限定版だ。そんなものを学校に持ってくる自分が悪いのだが、連載時からずっと単行本になるのを待っていたからはやく読みたくてしかたがなかったのだ。
もう探す場所は旧校舎ぐらいしかない。木造でいまにも崩れそうな旧校舎は本当に「でる」という噂だ。
白いスカートを穿いた女が教壇に立っている。赤ん坊の泣き声がトイレから聞こえる。杖をつく老人の影が窓に映る。たかが噂と片付けるにはどれも信憑性が高く、夕暮れどきに旧校舎に近づく生徒はいない。
薄暗い旧校舎の廊下を恐る恐る歩いていると、空き教室から物音がした。
突然のことにびっくりして、俺は胸に抱え持っていた鞄を落としてしまった。
本当に幽霊がいたなんて。
足がすくんで動けないでいると、物音がした教室の扉ががらりと開いた。
「ひっ……」
「おい、大丈夫か?」
顔を上げると、そこにいたのは脹相先輩で、俺は幽霊だったらどんなによかっただろうと思った。
殺される。
機嫌が悪い脹相先輩と遭遇して五体満足だったものはいない―という噂があるのだ。三年生のなかに何人か行方不明の生徒がいるとか、その事件に脹相先輩が関係しているんじゃないかとか、この先輩に関する噂はなにかと伝わってくる。
「あ、それ……」
「ああ、これ、お前のか?」
脹相先輩が手にしているのは紛れもなく俺の漫画だった。
「床に落ちてたから読んじまった。悪いな」
悪いのは脹相先輩ではなく、埃まみれの空き教室に他人の持ち物を放置した低脳なやつらだ。
だけど、俺は緊張感で吐きそうになっていて、まともな言葉を口にできなかった。漫画を返されても素直に「ありがとうございます」とすら言えなかった。
「あ、いえ、その……」
虎杖くんとはじめて話したときを思い出す。あのとき以上にテンパっている。
そんな俺を見て、脹相先輩が言った。
「その漫画、おもしろいよな」
そう言って笑う顔は虎杖くんとまったく似ていなかった。でも俺はその笑顔から目が離せなかった。兄弟そろって、なんというか、人たらしだ。
「気をつけて帰れよ」
それだけ言うと、脹相先輩は廊下に立ちつくす俺に構うことなく、教室のなかへ戻ってしまった。
俺は真っ暗になる前に旧校舎から出ようと、早足で廊下を歩いた。すると、今度は廊下の奥から足音が響いてきた。今度はなんだ。いったい誰だ。やっぱりこの校舎には幽霊がでるのか。怖すぎる。脹相先輩と偶然出くわした衝撃から立ち直っていなかった俺は、混乱したまま男子トイレに身を隠した。
足音が過ぎていく。そこで気づいたのだ。
幽霊って足音しなくね?
じゃあ、人間だ。ほっとしてトイレから顔を出す。足音が向かったほうを見ると、制服からのぞく赤いフードが脹相先輩のいる教室に消えていった。虎杖くんだ。
脹相先輩を迎えにきたのだろうか。二人が校内で話しているところを見たことがない。学年が違うというのもあるが、お互い必要以上に立ち入らないようにしているような。端的に言って、仲が悪いと思っていた。
廊下が不気味なオレンジ色に染まっている。
背筋がぞわりとしてさっさとここから立ち去ろうと思っていると、虎杖くんの声が聞こえた。小さな悲鳴のような、かすかな声。
まさか、殴られてるとか?
弟を殴るなんて、最低な兄だ。しかも誰も見つからないようなこんな旧校舎で。
漫画を拾ってくれた恩をすっかり忘れて、俺のなかで脹相先輩に対する怒りが膨らんだ。
俺の憧れの虎杖くん。彼が誰かに殴られるなんて耐えられない。
俺は足音をたてないように廊下を静かに歩き、閉まりきっていない扉の隙間から室内をのぞいた。ぼろぼろの応接ソファーから脹相先輩の足がはみ出ていた。
俺が想像したような不穏な様子はない。聞き間違いだったのかもしれない。
ほっとした瞬間、誰かがソファーから起き上がった。その横顔を見間違うはずなんてなかった。
「兄ちゃん、入れて?」
教科書貸して? と無邪気に頼んできた虎杖くんと同じ声。でもとても同じ人間とは思えない。
とろけるような艶のある声に俺は体の奥がかっと熱くなった。
これからなにが起こるのか、そういうことに疎い俺にも理解できた。
だって、虎杖くんは上半身が裸だったし、その体をなでる脹相先輩の手つきは、兄弟とは思えないほど生々しかった。
実の兄弟が抱き合っている。
旧校舎の教室で。それを俺はいま目の当たりにしている。
「学校では最後までしないんじゃなかったのか」
脹相先輩が言った。ソファーの背に隠れて顔は見えない。
「さっき誰かと話してたでしょ」
「ああ、あいつか。なんか漫画を取りに来たって」
「学校では誰ともと話さないって約束したじゃん」
「そうだったな。悪い」
脹相先輩の手が虎杖くんの頬をなでた。
うっとりと嬉しそうな顔をする虎杖くんの顔から俺は目が離せなかった。
こんな顔、きっと誰も知らない。俺しか知らないんだ、と思うとなぜか不思議な高揚感を感じた。
「本当は俺も学校で兄ちゃんと話したいのに」
「お前の顔を見たら我慢できなくなる。俺だって必死に我慢してるんだ」
脹相先輩が起き上がった。夕陽に縁取られた二人分の輪郭。唇が重なり合った。俺は息を潜めながら、爆発しそうな心臓を宥めるようにシャツをぎゅっと握りしめた。
「はやく入れて、兄ちゃん」
「まだちゃんと解してないぞ」
「いいから」
虎杖くんの上半身がほんの僅かに浮き上がり、ゆっくりと沈んだ。脹相先輩の体にしがみつく虎杖くんはいままで見たことがないくらい切羽詰まっていて、俺はその姿を目に焼き付けた。
いけないことをしている。他人の性行為を覗き見るなんて。
でも、眼前に行われている行為のほうがはるかに異常で、俺はその異常性を免罪符に、二人が抱き合う姿を見守った。
「んっ……ぁ……」
苦しそうに虎杖くんが喘ぐ。脹相先輩がなだめるように虎杖くんにキスをする。
「あ、ん……兄ちゃん」
虎杖くんが脹相先輩を「兄ちゃん」と呼ぶたびに、俺はくらくらするような興奮を覚える。
こんなことぜったいにおかしい。でも俺は絡まりあう二人の姿から目をそらせなかった。
「悠仁……」
「兄ちゃん……好き、大好き」
虎杖くんが脹相先輩の頭をぎゅっと抱きかかえる。脹相先輩の髪がほどけて肩にはらりと落ちる。思ったより髪が長くて、脹相先輩の横顔が見えなくなった。
二人が交わる姿は、なんてきれいなんだろう。俺の憧れが貪婪に誰かを求める姿を見るのは、いままで知らなかった自分の欲望を暴かれるようで、高校生にして新たな性癖を開いてしまったのかもしれない。
俺はいつのまにか扉に手をかけていた。
見たい。隙間から二人のことを凝視しているだけじゃなくて。この扉を開いたらどうなるんだろう―俺がそんな邪なことを考えていると、虎杖くんがすべてを見透かすようにこちらを向いた。
あ、バレた。
いや、きっとずっとバレていた。虎杖くんがこの教室に入ったときから。
俺が見ていることを知って、脹相先輩と抱き合っていたのだ。
虎杖くんと目が合う。
「悠仁、どうした?」
脹相先輩が虎杖くんの首筋に顔を埋める。
虎杖くんが愛しそうに脹相先輩の頭に頬をすり寄せる。
そんな顔は知らない。俺の知らない虎杖くんがそこにいた。教室で同級生と雑談する彼とも、俺の隣に座る彼とも違う。誰も知らない虎杖くんの本性に俺は絡め取られてしまった。
虎杖くんは動けないでいる俺のほうを見ると、声を出さずに口だけで言った。
「ひみつだよ」
俺は黙ってうなずくと、鞄を胸元に抱えて、真っ暗になった廊下をおぼつなかい足取りで歩き出した。
そのあとすぐに席替えがあって、俺は虎杖くんと話す機会を失った。
虎杖くんは相変わらずクラスの中心で、よく笑って、ときおりぼんやり窓の外をながめていた。
脹相先輩が卒業して暫くすると、虎杖くんは学校へ登校しなくなった。虎杖くんのおじいさんが亡くなったらしい。何週間も欠席が続いたあと、虎杖くんが退学したと知らされた。
俺は高校を卒業して、地元の大学に進学した。
大学一年生のころ、脹相先輩が旧校舎で拾ってくれた漫画が映画化された。
もうとっくに連載を追うことはやめていたけれど、大学の講義をさぼって映画館まで足を運んだ。
エンドロールが流れ終わったあと、オレはなぜか虎杖くんの横顔を思い出した。
誰も知らない虎杖くんの秘密。
俺と虎杖くんの二人だけの秘密。
もう彼に会うことは二度とないけれど、その秘密を抱えて生きていけるだけで俺は幸せだと思った。