萌芽
「腹が減らないってどんな感じ?」
と悠仁が脹相に尋ねてきたのは、無人のコンビニを二人で物色しているときだった。
暗くなる前に夕飯を調達しようということになり、ひっそりした住宅街にぽつんと建つ、まだ荒らされていない店舗に入ったのだ。
脹相は半分呪霊なので、積極的に食べ物を口にしなくても生きていけるし、空腹のせいで体調が悪くなることもない。もちろん呪力が枯渇することもない。
どんな感じかと訊かれても、ただ腹が減らないというだけで、そこに特別な苦しみや悩みがあるわけではない。そういうものとして受け入れているだけだ。
人の体に受肉しても、人になりきれない、中途半端な生物。もっと言えば、この世に生まれてきてはいけない存在。悠仁に問われて、改めて自らの体の特殊さを実感する。
「こういう状況では、便利な体だと思っている」
それもまた脹相のひとつの本心だった。
あらゆる機能が停止した街で、手に入るものは限られる。食糧はその最たるものだ。平時のように容易に食糧を確保できない状況で、自分の空腹の心配をしなくていいのは、悠仁の生存を最優先する脹相にとって都合がよかった。
「脹相はそうやって割り切れるんだ」
悠仁は脹相の顔を見ずにそう言うと、手にしていたパンの袋を買い物かごの中へ放り込んだ。
生ものや惣菜類と違って、パンは消費期限が過ぎていても食べられる。袋の中は抗菌だから。というのが悠仁の持論で、その真偽のほどは不明だが、悠仁の体調が悪くなるようなことがあればすぐに止めようと思っている。
「割り切っているというか、まあ、減らないものをどうこうできないからな。食欲があれば、食べる量をコントロールできるのかもしれないが、ないものはないと受け入れるしかないだろう」
「確かに。それは言えてる」
はは、と悠仁が短く笑った。
声の調子にいつものような張りがない。
疲れているのだろうか。確かに今日払った呪霊の数は昨日より多かった。二人で連携しながら払っているとはいえ、朝から晩まで休みなく動いているから、悠仁が疲労を感じるのも無理はない。
労りの言葉をかけようと脹相が口を開くより先に、悠仁が言った。
「俺さ、最近すごく腹が減るんだよ」
悠仁の足元に置いてある買い物かごの中をのぞく。メロンパン、あんパン、フレンチトースト、クリームサンド。袋詰めの食パンまで入っている。四枚切りの分厚い食パン。このまま食べたら喉を詰まらせそうだ。目に入ったものを片っ端からかごに入れていったのだろう、とても一人で食べきれるとは思えない量だ。
「呪霊を払うのに体力を使ってるからか?」
脹相が尋ねると、悠仁が「違うと思う」と首を横に振った。
「食べても食べても腹が満たされない。しかも、食べ物の味もよく分かんなくなってきてる」
「それはどういう……」
「たぶん呪力の供給が追いついてないからだと思う。それは自分でも分かるんだ。常に体の中に隙間があるっていうか、腹のあたりにぽっかり穴があいてる感じがする。でも、味がしないのは……」
悠仁は言いよどむと、それきり黙ってしまった。
悠仁の中ではっきりと答えが出ているのに、口にするのが嫌なのだろう。
口にしてしまえば、それと向き合うことになる。
このまま悠仁をそっとしておいたほうがいいのだろうか、と一瞬思ったが、悠仁のほうから食欲の話題を振ってきたのだから、脹相が踏み込んでもいい領域だと判断した。
「心当たりがあるのか?」
「……宿儺の影響かな。もう人間が食べるものじゃ満足できないのかも」
脹相は悠仁の顔をうかがった。が、悠仁は目を合わせてくれない。横顔はなにかを耐えているように張り詰めている。
「悠仁……」
どんな言葉をかけたらいいのか分からない。
宿儺の影響で体の傷が治りやすいと悠仁は言っていた。そのとき、あえて口には出さなかったが、嫌な予感が脹相の頭をよぎった。
悠仁の体が少しずつ呪いに近づいていっている。
人ではないものに、変わっていこうとしている。
一般の人間より優れている身体能力も、底知れない体力も、宿儺の呪力を取り込んでいるからだ。その呪力が悠仁の体を侵食しはじめている。
そして、悠仁はそれに抗う術を知らない。もちろん、脹相にだって分からない。
「俺、もう化け物なんかな」
悠仁は陳列棚のデニッシュをわしづかみにすると、買い物かごに投げ込んだ。
投げやりで、悠仁らしくない仕草だ。
「悠仁は化け物ではない」
「化け物にそう言われてもな」
無意識に出た言葉だったのだろう。
荒々しい口調と暗い表情。本当に、悠仁らしくない。悠仁はすぐにはっとして、脹相へ申し訳なさそうな顔を向けた。
「悪い……勝手に苛ついて」
二人の間に流れる微妙な空気が僅かに緩んだ。
なにも考えずに吐いた言葉が悠仁の本心だとしても、脹相が化け物なのは明らかで、悠仁を責める気にはなれない。
「大丈夫だ。それぐらい受け止める度量はあるつもりだ」
「……兄だから?」
「そうだ、兄だからな」
脹相がきっぱりと言い切ると、悠仁が照れたようにうつむいた。
よく磨かれた床に二人分の足跡が転々とついている。逃げ道を確保するために開けている正面ドアから冷たい風が入り込んでくる。今夜も冷えるだろう。
「俺も宿儺みたいに、人間を食べるようになるのかな」
脹相に話しかけたというより、限りなく独り言に近い。
脹相は悠仁の次の言葉は待った。
「もう、誰も殺したくないのに」
悠仁の声は震えていてて、今にも泣きそうな様子で、兄として抱きしめてやりたいと思う。
だが、体を寄せ合ったとしても、悠仁の懊悩が消えるわけではない。そんな行為は無意味で、脹相の自己満足でしかない。
いま、自分は悠仁になにができるだろう。
こうして一緒に呪霊を払うこと以外に、自分が悠仁にできることはなんだ。
すべてを諦めたように、殺伐とした表情で脹相を見つめる悠仁ではなく、明るくよく笑う弟を取り戻したい。
兄ちゃん、と自分に懐いてくる弟を。
「そのときは、俺を食べればいい」
間を置いて、悠仁の大きなため息が店内に響いた。
「それも兄としての優しさってやつ?」
「ああ。弟のためなら、俺はなんだってできる。腕の一本ぐらいなくても戦えるしな」
「いや、それどういう自信だよ」
悠仁が呆れたように笑う。
脹相の記憶の中の悠仁には及ばないけれど、それでも笑顔を見られただけで満足だ。
「いくら脹相が強くても、腕がなかったらいろいろ困るだろ」
「確かにそれもそうだな……腕がなかったら、悠仁を抱きしめられない」
「そういう恥ずかしいこと言わんでいいから」
悠仁が脹相から顔を背けた瞬間、無防備な首筋が目に入った。
例えば自分が耐えられないほどの飢餓感に襲われたとして。
脹相はまず違いなく、触れるほど近くにいる悠仁を抱き寄せて、柔らかな肉に歯を立てるだろう。
悠仁はいったいどんな味がするのだろうか。
想像するだけで、ないはずの食欲が、溢れてくるような気がした。