希求
「俺、お前のことなんにも知らないよな」
脹相の数歩先を歩いていた悠仁が振り返って言った。
「なにか知りたいことがあるのか?」
「ほら、そういうところだよ」
悠仁が不満そうに眉根を寄せる。
そんな悠仁に対して脹相はどう反応すればいいのか戸惑う。
「悠仁が知りたいことならなんでも教えるが」
「俺が知りたいことじゃなくてさ……」
悠仁はそこで一呼吸置くと、脹相の目をじっと見つめて言った。
「お前が俺に知ってほしいこととか、ないの?」
悠仁が立ち止まり、脹相もそれに倣うように足を止めた。高層ビルが軒並み壊されて平たくなった街は静かだ。まるで悠仁と脹相だけがこの世界に取り残されたようだ。
悠仁の挑むような視線を真正面から受け止める。
「悠仁が知りたいなら教える」
「だからそうじゃないんだって。俺はお前から話してほしいんだよ」
「話すことは特にない」
「あるだろ。嘘つくなよ」
「昨日キスしたことか?」
「分かってんじゃねえか。知らないふりすんなよ!」
どん、と悠仁のこぶしが脹相の胸を突いた。それなりの痛みを覚悟したが、悠仁が手加減してくれたのか、軽い衝撃以外はなにも感じなかった。
「悠仁が起きていたのは知らなかった」
いつものように体を丸めて静かに眠っていたから、まさか起きているとは思わなかった。
「……なんでって訊いてもいいわけ?」
「キスしたことか? それとも悠仁を好きになったことか?」
「どっちもだよ!」
悠仁が叫んだ瞬間、斜めに傾いた電柱に止っていたカラスがしわがれた声をたてながら飛び立った。あの不快な鳴き声は好きになれないが、人間の消えた街を悠々と見下ろしながら飛ぶ姿はどこまでも自由で少しうらやましい。
地上には面倒なしがらみが多すぎる。
小さな瓶に封印されていたころは、受肉して人の体を得たらなんでもできると思っていた。
すべてが自分の思いどおりとはいかなくても、ある程度は自分の好きに生きられるかもしれない、と。
「悠仁がなんで怒ってるのか俺には分からないが、兄が弟を好きになるのに理由なんているのか?」
「もうこの際俺がお前の弟かどうかは置いておくけど、兄弟で……キス、とかしないだろ。そんなのおかしいって」
キス、と口にした悠仁はどこか気まずそうに目を伏せる。呪霊との戦闘には慣れていても恋愛ごとには疎いのだろう。
いつもは弱みを見せない弟の新たな一面が知れて、脹相はますます悠仁が愛しくなった。
「キスは好きな者に対する親愛の表現だろう。なにもおかしくないだろう」
「普通の兄弟はそういうことしねえんだよ」
「俺は普通じゃないからな。人間の物差しはよく分からない」
「自分でも普通じゃないって分かってんだ?」
悠仁が口元を歪めて脹相を蔑むように笑った。
瞬間、脹相のなかで、愛しさとは別の、いままで必死に押さえ込んでいた感情が波のようにどっと押し寄せてきた。
一歩進んで悠仁に近づき、両手で悠仁の頬を包む。そうやって悠仁の顔に触れると、親指がちょうど宿儺の両目の位置にくる。
ぐっと親指に力を入れると悠仁が痛みに顔をしかめた。
「脹相、なにやって……」
悠仁が脹相の手首をつかんで引き剥がそうとする。
「悠仁、いまお前の目の前にいるのは特級呪物だぞ? 一度、俺に殺されかけたことを忘れたか?」
鼻先が触れるほど顔を近づける。
悠仁がひゅっと短く息を呑んだ。
耳障りな鳥の声より、聞くなら悠仁の泣き声のほうがいい。
悠仁の頬をつかんだまま親指の爪を立てると、ぷつり、と肉の破れる感触がして、赤い血が指先に滲んだ。
「……俺は、悠仁の体がほしい」
脹相が受肉した、どこの馬の骨とも知れない人間の体などではなく。
悠仁の体内で飼われる宿儺がうらやましい。
できることなら宿儺を引きずり出して自分が悠仁のなかに入り込みたい。
「お前……本気でイカれてんだな」
悠仁は強張った表情を崩さずにそう言うと、脹相の手首をつかむ指に力をこめた。
拒絶された悲しさよりも、悠仁に自分のすべてをさらけだした安心感に満たされる。
柔らかな頬の肉を抉るように強く、深く爪先を立てながら、脹相は悠仁の口を塞いだ。