満願

 意識を取り戻した脹相が最初に目にしたのは黒い革靴だった。
 よく磨かれて艶を放っている革靴を起き抜けの頭でぼんやりと眺めていると、
「あ、目ぇ覚めた?」
 若い男の声が頭上から落ちてきた。
 声のほうへ視線を向けようとしたが、こめかみのあたりがずきりと痛んで、思わず顔をしかめてしまう。
「無理に動かないほうがいいよ。まだ薬抜けてないから」
 柔らかい口調に反して、男の声には有無を言わさぬ強制力とでもいうのか、慈悲のない冷たさが滲んでいる。
 いったいここはどこだ。こいつは誰だ。
 上半身ごと起き上がろうと、コンクリートの床に手をつこうとして、ようやく気がついた。どうやら手首を後ろ手に縛られ、両脚も拘束されているらしい。まったく身動きがとれない。試しに両手首の縛りを解こうと体を捻ってみたが、バランスを崩してしまい、固い床に頬を擦りつけただけで終わった。
「だから動かないほうがいいって言ったじゃん」
 邪気を含んだ声。
 床に突っ伏した脹相に手を貸すつもりはないらしい。
 この男の目的は不明だが、無様に縛られた脹相を見て楽しんでいるのは確かだ。よほど性格が悪いのか、頭がイカれているのか。
 脹相は今まで経験したことのない、なんとも言えない不快な痛みに耐えながら、視界に入ってくる情報を頭の中で必死で整理する。
 四方をコンクリートの壁に囲まれた窓のない部屋。埃っぽくて、じめついている。地下室だろうか。部屋にいるのは脹相と、パイプ椅子に座って自分を見下ろしている男だけ。
 なぜ自分はこんなところにいるんだろう。霞がかって、はっきりしない記憶をたぐり寄せる。
 コンビニの深夜シフトを終えて帰宅途中だったはずだ。
 もうすぐ家に着くという頃合いに、後ろから声をかけられた。
―あの、すみません。道に迷っちゃったんですけど。
 脹相はなんの疑問も抱かずに振り向いた。そこからの記憶がない。
 本当はその時点で怪しむべきだったのだ。
 深夜三時の住宅街で道を尋ねてくる人間なんて、きっとまともな奴ではない。
「あれ、また意識飛んじゃった? 伏黒のやつ、薬の量間違えちゃったのかなあ」
 男の緊張感のない声が脹相を現実に引き戻した。
「ここは……」
 どこだ、と尋ねようとしたが呂律が回らない。
「ここは俺の事務所の地下室」
「じむ、しょ…」
「そうそう、俺、こう見えてでっかい組の直系で若頭やってるんだ。すごいっしょ。けっこう頑張ったんだよ。組に入った頃は、小便臭いガキがいるとこじゃねえんだよ、ママのおっぱいでもしゃぶってろよってなめられてばっかりだったし。まあ、そういう奴は一発殴ればおとなしくなるんだけど、俺をヤリ目的で誘う変態もいてさ。うっかり殺さないようにするのが大変だったな。それなりに地獄も見たけど、この世界は金と力と人脈を持ったほうが勝ちだから、フィジカルが強くて世渡り上手の俺には向いてたみたい。親には恵まれなかったけど、いい仲間に出会えたし、こういう世界で生きるのも悪くないかなって思ってる。ただ、組を継ぐのは面倒なんだよなあ。命とか狙われそうだし」
 男はどこか子供っぽい、高揚した声でぺらぺらとよく喋る。
 こういう喋り方を脹相は知っている。
 運動会のかけっこで一番になったとき、算数のテストで満点を取ったとき、おもちゃでいっぱいの部屋をきれいに片付けたとき、下の弟たちは脹相に褒めてほしくて甘えてくる。そのときと同じ口調。
 嬉しそうに駆け寄ってくる弟たちを、もちろん脹相は思い切り褒めてやる。
 よくやったな。えらいな。さすが俺の弟だ。
 そうだ、弟たちは無事だろうか。帰宅の遅い脹相を心配していないだろうか。いま、いったい何時だ。朝ご飯を作らないと。冷蔵庫に卵が残っているはずだ。打たれた薬のせいだろうか。思考があちこちに飛んでまとまらない。
「お、れの……おと、うと……」
「ん? なに?」
 おもむろに前髪を捕まれて無理に顔を上げさせられた。
 男と目が合った瞬間、脹相は驚きを隠せなかった。
 スーツ姿の男は―どう見てもまだ十代の少年だった。
「なん、で……」
「それはなんでここにいるかってこと? それとも俺がなんでこんなことしてるのかってこと?」
 脹相が弱々しく頷くと、少年はにっこりと笑って言った。
「俺のこと、覚えてない?」
 脹相は少年の顔をまじまじと見返した。
 わずかにつり上がった目尻と口元の傷跡に酷薄さが滲んでいるが、笑った顔は年相応で、着ている服を堅苦しいスーツからブレザーに替えれば、どこにでもいる普通の高校生に見える。前髪を丁寧になでつけた短髪はくすんだ金のような、赤銅のような、複雑な色だ。こんな薄暗い地下ではなく、陽の光の下で見れば、さぞきらきら光ってきれいだろうと、柄にもないことを思ってしまう。
 記憶の底を掬っても、少年の顔に見覚えはない。
 脹相がゆるく首を振るのと、がつんと頬を殴られたのは同時だった。
 あまりにも早い殴打に、受け身を取ることも不可能で、そのまま部屋の隅まで吹っ飛ばされた。背中を強く壁に打ってしまい、げほげほとむせると、赤い血が灰白色の床に散った。
「あ、悪い。手加減したつもりなんだけど」
 脹相を殴った感触を確かめるように拳を開いては閉じを繰り返し、少年はへらりと笑う。謝罪の言葉とは裏腹に、罪悪感など微塵も抱いていないようだった。
 他人を殴ること、ひいては誰かを傷つけることに、良心の呵責を感じていない。
 むしろ痛めつけるのを楽しんでいるふうだ。
 脹相は、この少年と逃げ場のない空間で二人きりでいることをはじめて怖いと思った。
 こいつは脹相の生きる世界には属さない人種だ。夜の暗闇に紛れて生きるのを常とする、自分とは無関係の世界で生きる人間。
 逃げたい。心の底からそう願った。
 ここから逃げて、弟たちの待つ家に帰りたい。
 両親は大学進学後すぐに亡くなった。頼れる親戚もいない状況で、まだ幼い弟たちを守れるのは脹相だけだった。脹相は大学を中退して働きはじめ、今は本業とは別に深夜のバイトも掛け持ちして、生活費とは別に弟たちの進学費用を貯めている。自分はどれだけ苦労してもかまわない。弟たちには幸せな人生を歩んでほしかった。
「ねえ、生きてる?」
 少年はパイプ椅子から立ち上がると、脹相の肩を蹴り上げた。
「うっ……」
 攻撃から身を守るように背中を丸める。ひどく惨めな気分だ。自分より年下の少年にいいようにされて、反撃すらままならない。だが、今はこの痛みを耐えることしかできなかった。
「あー、けっこう血が出てんね」
 肩を靴底で踏みつけられ、仰向けのまま動きを封じられる。口の端からどろりと血が流れた。蛍光灯から零れ落ちる青白い光が逆光となって、少年がどんな表情をしているのかは分からない。
 殴られたせいか、それとも打たれた薬が抜けてきたせいか、意識がだんだんとはっきりしてくる。
「お、前は…誰だ?」
「お前って、ひどくない? 俺のこと、弟だって言ってくれたのに」
「いったいなにを……」
「俺ね、生まれ変わるたびに脹相のこと探してたんだよ。でも全然会えなくて、結局いつもひとりぼっちで死んじゃうんだ。何度も何度も、次は会えるかな、次こそは兄弟になれるかなって死ぬ前に願っても、ぜったい会えないんだよ。それなのに……」
 ぐりっと靴先が肩に食い込む。痛みに呻くと口の中に血の味が広がった。
「ずるいよね。あいつらは脹相と会えるなんて」
 生まれ変わるだの、兄弟だの、少年がなにを言っているのか分からない。
「俺の弟は……二人だけだ。お前のことは知らん」
「だからお前じゃないって……あ、ちゃんと名乗ってなかったけ。俺、虎杖悠仁」
「いたどりゆうじ……」
 知らない名前だ。
 いままでそれなりに真っ当に生きてきた脹相に、犯罪組織の知り合いなどいない。
「うん。思い出してくれた、お兄ちゃん?」
 虎杖が腰をかがめて脹相の顔を覗き込んでくる。
 返事の代わりに、虎杖の顔に唾を吐きつけた。虎杖は軽く舌打ちすると、血が混じった唾液を手の甲で拭った。
「ああ、もう。なんで分かってくれないんだろ。兄弟そろってマジで面倒くせえな」
 まるで脹相の弟たちと会ったことがあるかのような口ぶりだ。
「……どういう意味だ?」
「勝手に盗むのは道理に反してるから、脹相をここに運んだあと、ちゃんと許可を取りに行ったんだよ。あなた達のお兄さんを俺にくれませんかって……でも、断られちゃった」
 虎杖はスーツの胸元をひろげると、内ポケットからなにかを取り出した。
「だからさ、殺しちゃった」
 虎杖が手にしたスマホの画面をタップすると、室内に聞き慣れた弟たちの声が響く。

 ちけず。にげるんだ。はやく。
 いやだ。こないで。なぐらないで。あにじゃぁ。いたいよぅ。
 にいさん。にいさん。たすけて。にいさん……

 椅子が倒れる音、血塗の泣き叫ぶ声、壊相の助けを求める声、食器が割れる音、べしゃりと肉が潰れる音、だんだんと小さくなる弟たちの悲鳴。
 現実感が乏しく、まるで映画の効果音のように思える。
「う、そだ……」
「嘘じゃないよ。動画見たい? けっこううまく撮れてるんだけど、かなりグロいよ」
 力加減が分かんなくてさ、ちょっとやり過ぎちゃったんだ、と虎杖が無邪気に笑う。
「……てやる」
「え、なに?」
 虎杖が脹相の体にまたがるようにしゃがみ込む。
「殺してやる……虎杖悠仁、ぜったい殺してやるからな!」
 体の奥から煮えたぎるような怒りがわき上がってくる。
 弟たちが死んだ。目の前にいる男に殺された。脹相がただひたすらに幸せになってほしいと願っていた弟たち。
 たった三人だけの家族だったのに。
 大切なものを奪われた悲嘆と憤怒で頭がおかしくなりそうだ。
 このまま狂い死んで、虎杖を呪い殺せたらどんなにいいだろうか。
 脹相の心を憎しみだけが支配する。
「いいよ、本気で殺しにきてよ。そのかわり、俺のボディーガードになってくれない?」
 なにを言い出すのかと思えば。やはりこの男は狂っている。
「ほら、さっき言ったでしょ。組を継いだら命を狙われる可能性があるって。だから、脹相は俺の命を守って、その対価としていつでも俺のこと殺していいよ。俺強いから、そんなすぐに殺せないと思うけど」
 虎杖はどこまでも楽しそうに言った。
「お前は、狂ってる」
「それは兄ちゃんも一緒でしょ」
「お前のようなクズは俺の弟なんかじゃない」
「ねえ、俺のことは悠仁って呼んでよ」
 兄ちゃん、と三度呼ばれる。
 脹相の家族を殺した男に兄と呼ばれるだけで、肌が泡立ち、胃の奥から吐き気がせり上がってくる。
「……地獄を見せてやる」
「地獄の扉が見えるのは、入ろうとする者だけって言葉、知ってる? 俺はとっくにその扉を開いてるよ」
 虎杖が脹相の頬を両手で包み込む。
 この手が血塗と壊相の命を奪ったのかと思うと噛みちぎりたくなる。
「ここの痣、なくなってんね」
 虎杖は意味不明な言葉を呟くと、親指の爪を脹相の鼻梁に突き立て、そのまま平行に抉るように動かした。
 脹相が痛みに顔を歪めると、虎杖はうっとりした表情で脹相の名を呼び、その目に涙を浮かべる。
 自分の名を呼ぶ虎杖の声は、弟が兄に縋るというものではなく、恋い慕う相手に身を委ねるような甘さが混じっているような気がして、なぜか脹相の胸は痺れるように痛んだ。

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