穏やかな夜

渋谷で逃亡中の脹虎が夜の図書館を訪れる話。

「今日はどこで寝る?」
 悠仁のその言葉で脹相は一日の終わりを知る。
 脹相は呪力が続くかぎり、呪霊と闘い続けることができるし、休むことなくどこまででも歩いていける。 
 たが、悠仁は人間だ。
 食事と睡眠。人間はこの二つに時間を割かなければいけないということを、脹相を悠仁と逃走するなかで学んだ。
 二人はいま、かつて東京都を東西に貫くように整備された街道を歩いている。
 世界がこんなことになる前は、都心のビル群が煌々とあかりを灯し、多くの人が行き交い、さぞかし賑やかだったことだろう。器から仕入れた基本的な知識によれば、このあたりは都内でも屈指の繁華街だった。
 だがいまはどうだ。
 巨大な掌でぐちゃりと握り潰されたような車が何十台と放置され、地面にはガラスの破片や瓦礫が散乱し、街道に沿って連なっていた店舗や住宅は焼け落ちて廃屋となっている。
 ぽつぽつと目に入るのは苦悶の表情がグロテスクな捻れた死体。悠仁以外の人間の死体などどうでもいいが、気をつけるにこしたことはない。溶けて原形を留めていない死体は道路に泥水のような染みをひろげ、過って踏んでしまうとひどく臭う。
 ほんの数週間前まで、この場所に人の営みがひろがっていたなど、とうてい信じられない。
 乾いた風に混ざるのは焦げた匂いと腐乱臭。
 暮れゆく夕陽の下に晒された世界の終わり。
 この世に安らぎなど存在しない、と毎日のように絶望を眼前に突きつけられる。
 悠仁は身体的にも精神的にもタフだが、それでも目に映るすべてに無関心でいられるほど鈍感ではないのだろう。
 現に二人で逃亡を開始した当初より悠仁は痩せた。
 なんとか悠仁を休ませてやりたい。それは脹相の兄として当たり前の気遣いだが、廃墟と化した都心部では雨風をしのぐのもやっとで、一夜を安全に過ごす場所を見つけるのは難しい。
 呪霊の活動は夜間に落ち着くというわけでもなく、闇夜にまぎれて跋扈するものも多い。
 弟の安眠を確保するのは兄の大事な役目だ。
 隣を歩く悠仁に視線を戻して脹相は提案した。
「あのビルはどうだ?」
 脹相は更地にぽつんと建つ四角い箱のような建物を指差した。
 灰色の壁面に並ぶ窓ガラスはほとんど割れているが奇跡的に倒壊を免れたようだ。
「お、いいんじゃん。寝心地もよさそう」
 その言葉の意味が分からず脹相が首を傾げると、
「ほら、あそこ見ろよ。区立図書館だって。ソファーとか置いてあるはずだし、負の感情もそんなに残ってないんじゃないかな」
 負の感情がたまりやすい学校、病院、オフィス街などで夜を過ごすのは避けるようにしている。
 そうなると安全に夜を明かせる場所は限られ、かつ天井が崩れる心配のない場所となると、これがなかなか見つからない。
 寝床を探し回る羽目にならなくてよかった。今日はついている。
 建物は四階建てで、図書室は最上階にあった。
 暗黙のうちに二人は階段を探した。
 以前、まだ場所によっては電気が通っていたとき、ホテルのエレベーターの扉を苦労して開けたことがある。
 ボタンを押しても開かなかったので、二人で両側から扉を引っ張ると、雪崩のように飛び出てきたのは死体の山だった。おそらく一時的に停電した際にエレベーターが落下し、扉が変形して開けることもできず、閉じ込められたまま餓死したのだろう。どの死体も肥えた蛆虫がたかり、折り重なった体の隙間から見えた鼠のしっぽは異様に太かった。
 あのときの悠仁の顔。
 まるで自分が直接手をくだしたかのように後悔と諦念が混ざっていた。
 ―なんか、疲れたな。
 そう呟いた悠仁の弱々しい声がいまでも脹相の耳に残っている。「静かだね」
 悠仁の言葉に脹相はうなずいた。
 図書室は荒らされた気配はなく、書架にきっちりと本が並べられている様子は、どこか脹相の心を落ち着かせた。
「やはり電気は通ってないな」
 壁のスイッチを操作してもカチカチとむなしい音が鳴るだけだ。
「インフラ死んでるからね」 
 二手に分かれて室内を歩き回り、天井の崩落や危険物がないことを確かめる。
 割れた窓から入り込んだ雨で絨毯は濡れ、枯れ枝やガラスの破片に混ざって鳥の死骸や鼠の糞がすえた臭いを放っている。蔵書もほとんどが雨風にさらされ、背表紙が寄れて色あせていた。
 窓枠の向こうでは夕闇が迫っている。風が冷たくなってきた。
 ふとこの景色を自分は知っていると思った。
 古本のかびた匂い。濃紺に染まる世界。込み上げる懐かしさ。
 悠仁と渋谷駅構内で戦っていた際に流れ込んだ記憶とは違う。これはおそらく器の記憶だ。
 そんなことがあるのだろうか。
 自分の胸に手を当てる。そこに人間の心臓があることは知っているが、命を刻むことはできても、記憶まで保存はできないだろう。
「脹相、どうした?」
 後ろを振り向くとスチール製の書棚から悠仁が顔をのぞかせていた。
「あ、いや……なんでもない」
「ならいいけど。残念なことに閲覧室にソファーはなし。ただ、先客がいたっぽい」
「先客?」
 呪霊か? それとも無法地帯で好き放題している暴徒どもか?
 脹相のなかで警戒心が高まる。
 悠仁と共に図書室の東側へ向かう。無言で歩く悠仁の後ろ姿に不穏なものを感じ、脹相にも緊張感が走る。
 日本語以外の言語で書かれた本が並べられた一画に、それはあった。
「これは……」
 毛布がかぶせてあるが、崩れた三角形のようなシルエットはどう見ても人間のものだ。
「子どもが二人。隠れてるうちに力尽きたみたい。姉妹かな」
 悠仁が力のない声で言った。
「たぶん死んでからそんなに時間はたってないと思う。昨日か……もしかしたら今朝とか」
 もっとはやくここに辿りついていれば救える命があった、と悠仁は言いたいのだろう。
 救ってそのあとはどうするのかとは言わなかった。
 わずかばかりの食料を与え、「大丈夫だから」とやさしい言葉をかけても、この世界に安全な場所などどこにもない。いずれはどこかで野垂れ死にする運命だ。
 だが、それを面と向かって悠仁には言えなかった。それはあまりも酷すぎる。
「悠仁のせいではない」
 代わりに脹相は別の本心を告げた。
 すべての元凶はあの男―あの最悪の術師だ。悠仁が責任を感じることはなにひとつない。
「本当に? 俺が……」
「悠仁」
 悠仁の肩をつかむと手の甲をぎゅっと掴まれた。
 こんなふうに触れ合うのははじめてだ。妙な痺れが体を貫く。
 悠仁がじっと脹相の瞳を覗き込んだ。
「俺は救いたかっただけなのに……」
 悠仁が膝から崩れおちる。
 脹相は悠仁の肩を掴んだまま後ろの書架に背中をぶつけ、二人ともその場に座り込んでしまった。ばさばさと落下する本を脹相は素早く払いのける。が、指先に触れた本が悠仁の後頭部を直撃する。くそ、と悪態をつきながらその本を手に取り、脹相ははっとした。
「これは……」
 小さく呟くと項垂れていた悠仁が顔を上げた。
「なに」
「いや……」
「脹相、さっきからなんか変だぞ」
 悠仁の鋭い視線を避けることができず、脹相は素直に白状した。
「どうやら記憶が残っているらしくてな」
「記憶?」
「ああ。この器の記憶だ」
 悠仁がきょとんとした顔で見返してくる。
「記憶、残ってんの?」
「さあな。分からん」
「分からんって……」
 器の記憶は存在しない。
 受肉した瞬間、器は人間だったころの記憶も感情もすべて失うはずだ。
「脹相って何歳?」
「突然なんだ」
「脹相って妙に落ち着いてるし、学生って感じもしないからなんかお堅い仕事でもしてたのかなーと思って」
「どうだろうな。どんな人間だったとしても、ここまで自由に俺の呪力が使えるということは、器としての素質はあったんだろう」
 そう言ってから、それはいったいどんな素質だろうかと自問する。
 器に対する同情ではない。純粋な疑問だ。
 悠仁も器足りえたからこそ、その身の内に呪いを飼っている。
 そこにどんな理由があったのだろう。
「じゃあ、俺と同じだな」
 悠仁は小さく笑った。
 脹相が答えに困っていると、悠仁がさらに続けた。
「俺は呪いへの耐性が強いんだってさ。だから宿儺をここに飼える」
 悠仁はそう言って自分の腹に手をあてた。
 脹相と悠仁は似ているようでまったく違う。
 自分は受肉したことで明確な自我を得て自由になれたが、悠仁は宿儺の器になったせいで、追われる身となった。
 そんな悠仁に自分ができることはなんだ。
 大切な家族。血を分けた弟。
 この滅びゆく世界で唯一守るべき存在。
 脹相は手にした本を開き、ああやはりそうなのか、と信じられない気持ちになった。
 脹相はこの本を知っている。いや、器が知っていたと言うべきか。
 あり得ないはずなのに、明らかに人間だったころの意識が脹相を干渉している。
「それ、なに?」
「詩集だ」
「は? 詩集って面かよ」
「どうやらこういうものを好んで読んでいたようだ」
「器が?」
 うなずくと、「詩集が好きなんて、やっぱりお堅い人間だったんじゃん」と悠仁がからかうように言った。
 その口調に先ほどまでの沈鬱さはなく、脹相はほっと胸をなでおろした。
「なんか読んでみてよ」
 悠仁がどこか楽しそうに言った。
 ずっと行動を共にしていた相手に意外な一面があるのを面白がっているのか。
 もしくは空元気か。
 脹相がなにを読もうか考える間もなく、指が自然にページを捲った。
 不思議なことに嫌な気分はしなかった。
 指が詩集の最後のページで止まり、脹相はそこに書かれている詩を口にした。

 死に支配されるな
 死者は衣服を剥がされ、西の月の下で、みな同じようになってしまった
 肉は食われ骨となり、骨は土となろうとも、星々が宿る
 気が触れても正気にかえる
 海に沈んでもまた浮上できる
 恋人たちが死んでも愛は残る
 そう、死に支配されてはならない

 読み終えて本から顔を上げると、悠仁が毛布のかたまりを見つめていた。
 明確に存在する死。
 それを前に脹相も悠仁も無力だ。死んでしまったものは生き返らない。
 この子どもたちも。脹相の弟たちも。
 だが、生きている自分たちは抗うことができる。
 この暗闇が支配する世界で、死んだものたちの魂を背負いながら生きることができる。
 狂っても、泥水に足を掬われても、絶望の淵に沈んでも。
 倒れたものたちのかわりに、自分たちが起き上がらなければいけない。
「今日は疲れたな」
 悠仁が静かに言った。
「ああ。ここで寝るか?」
 脹相が問うと悠仁は小さくうなずいた。
 書架に背中をあずけ、腕のなかに悠仁を抱く。寝床確保に失敗し、ベッドやソファーで眠れない夜はこうして暖をとると決めている。
 人間は寒さに弱いのだと教えてくれたのは悠仁だ。
 やがて強張っていた悠仁の体が弛緩しはじめる。
 眠るときぐらいは穏やかであってほしい。
 脹相は手に持っていた詩集に再び視線を戻す。
 先ほど読んだ作品のあとに、短い詩が載っていた。

 穏やかな夜にその身をゆだねるな
 死に絶えゆく光に向かって
 怒れ、怒れ、怒り狂え
 穏やかな夜のなかへ
 死に絶えゆく光に向かって
 怒れ、怒れ、怒れ

 黙読したあと、ふっと自分の体からなにかが抜け落ちたような感覚があった。
 消えたのだ。器の意識が。
 いったいどういう意図があって人間だったころの記憶が蘇ったのだろうか。
 最期に好きな詩集を読みたかったとか、この図書館から見える景色が好きだったとか、そんな感傷的な思いだったとは考えにくい。脹相は特級呪物である九相図だ。ちっぽけな人間の気まぐれに意識を支配されるなどありえない。気まぐれでなかったとすれば、それはおそらくこの人間の怨念めいた脅迫だ。
 俺の体を使うなら、使え。存分に。守れ、目の前の大切な存在を。
 すべてを飲み込もうとする闇に抗え。
 怒れ、怒れ。いかれ、いかれ。いかれ。
 狩れ。
 呪霊を、狩る。それが悠仁を守るために脹相ができることだ。
 明日、悠仁は幼い亡骸を埋葬したいと言うだろう。正直野垂れ死んだ子どもの死体など放っておけばいいと思うが、もしそれを拒否すれば悠仁が悲しむ。
 兄は弟のために。
 脹相にとって、悠仁の存在だけが光のない夜に抗うたったひとつのよすがなのだ。
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