最果て

「今日は雨が降るな」
 脹相の言葉を受けて日が昇ったばかりの空を見上げる。いくらか雲が出ているが太陽を隠すほどではないし、頬をかすめる朝の空気は冷たく乾燥していて、雨が降る気配はない。
「そんな感じしねえけど」
「おそらく午後から降り始めるだろう」
「まじか。天気予報どうなってんのかな―って、もうスマホ持ってないんだった」
 悠仁にはどうしてもなおらない癖がある。
 瓦礫と化した繁華街を歩きながら現在地が知りたくなったとき、そこそこ強い呪霊を祓ってほっと一息ついたとき、濃紺に滲む空を振り仰いで一日の終わりに気づくとき、無意識のうちにズボンの後ろのポケットを探っている。
 探ってもポケットのなかにはなにも入っていない。頭では分かっているのに、体がその動作を覚えていて、考える前に手が動いている。
 空っぽのポケットに手を突っ込んで、ああ、またやっちゃったなと思いながら、高専に転校してから持ち始めたスマホに自分はかなり依存してたんだなと呆れてしまう。
「なくしたのか? どこかに落としたなら探しにいくか?」
 脹相の気遣いはありがたいが、瓦礫の山から掌に収まる小さな機械を探し出せるとは思えない。
「いやいや、もう見つかんないって。あちこち移動しながら戦ってたから、渋谷のどこで落としたかもう分かんないし」
「……それは、俺にも責任があるな」
 すまなかった、と沈んだ声で謝られて、悠仁は慌てて言葉を続けた。
「謝んなくていいよ。脹相と戦ってたときに落としたとははっきり言えないし。それに俺だって……その……」
「弟たちのことか?」
 悠仁が頷くと、
「それはもう話しただろう。悠仁が気に病む必要はない」
 それが脹相の本心だといまの悠仁には分かる。
 ここ数日、共闘しながら呪霊を祓うなかで、脹相の圧倒的な戦闘能力を目の当たりにした。
 悠仁を殺そうと思えば、二人きりなのだからいつもで殺せるのだ。それなのに、悠仁を殺すどころか、このまま地獄の果てまでついて来てくれるんじゃないかと思うほど、そばに寄り添ってくれている。
 この男は心を許した相手を傷つけたり、裏切ったりするような真似はしない。半分呪霊という特異な存在なのに、他人を虐げることに喜びを感じる呪詛師より、よっぽどまともな気がする。
 結局、どういう角度から相手を見るかということなんだと思う。
 特級呪物の脹相、弟思いの脹相、悠仁を助けてくれる脹相。
 人が生きられなくなった世界で、悠仁の隣を歩いてくれる。それがどれほど心強いか。
 一度は殺したいほど憎んだはずの悠仁を、脹相は許すと決めた。だが、それで悠仁の胸のつかえがとれるわけではない。自分が納得できる答えは自分自身が見つけなければいけないし、このまま脹相の許しに甘えていても、悠仁が多くの人たちを惨殺した罪は消えない。
「まあ、悠仁は真面目だから俺がいくら言っても気に病むだろうがな」
 脹相が目を細めて薄く笑う。自分の心のうちを言い当てられたようで恥ずかしくなり、悠仁はとんと脹相の肩を拳で突いた。
「べつに真面目じゃねえよ。俺が真面目に生きてたら……きっとこんなことになってない」
 あたりを見渡せば昨日と変わらず壊れた街が広がっている。
 冬の初めの陽光が無残に崩れたビル群の姿をくっきりと映し出し、かすかに漂う硝煙の臭いと乗り捨てられた車から漏れたガソリンの臭いが鼻につく。
 見慣れた光景。嗅ぎ慣れた死臭。
 でも、スマホが手元にないことには慣れない。
 生きるのは、なんてままならないことなんだろう。
「悠仁は、全ての呪霊を祓い終えたらなにかしたいことがあるか?」
「……そんなこと考えて、なんか意味あんの?」
「少しだけ気持ちが楽になる」
 脹相の言葉の意味を捉えかねて、悠仁は眉をひそめる。
「どういう意味だよ」
 脹相が思いをめぐらせるように視線を遠くへ投げた。
「封印されていた百五十年の間、明日は自由になれるかもしれないと思い続けていた。明日こそは、明日がだめでもその次の日は。そうやって永遠にも近い時間をやりすごしてきた。自我がある自分が憎かった。もうなにも考えたくない、狂ったほうが楽だと何度も思った。だが、母を弄んだ男への憎しみがすべてに勝った。そして学んだ。変えられない現実に囚われると、未来で果たせるものも果たせない、と。だから俺はいつも、ほんの少し先のことを考えるようにしている」
 脹相が自分のことをこんなに話すのははじめてで、しかも悠仁が思う以上に現実的な考えを持っていると知って、なんだか面食らってしまう。
「お前、けっこうしっかり考えてんだな」
「兄だからな」
「確かに頼れる兄貴っぽいかも」
 脹相の顔がぱっと明るくなる。
 あ、これは調子にのるパターンか。
 いまにも悠仁に抱きつかんばかりの脹相を制して、ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「なあ、お前は俺のこと弟って言ってくれるけど、それって呪霊狩りが終わってもそうなの?」
「もちろんだ」
「期間限定とかじゃなくて?」
「俺はずっと悠仁の兄だ」
 当たり前だろうという顔をされた。
「そっか……」
 全ての呪霊を祓ったあとの世界。
 そこに自分はいるんだろうか。
 呪霊が消えて、世界がもとにもどっても、自分が殺した人たちは戻ってこない。
 失った大切な人たちも帰ってこない。
 無数の命を奪った自分が、未来を願ってもいいのだろうか。
「あのさ、これは別に強制とかじゃないんだけど……ぜんぶ終わって俺が生きてたら、一緒に住むか?」
 尋ねたのは自分なのに、恥ずかしくて脹相の顔をまともに見ることができない。
 脹相のことだから感極まって泣くか、抱きついてくるか。
 そんなことを思う自分は少しうぬぼれているのかもしれない。
 だが、脹相はいっこうに無反応で、とうとう悠仁は顔を上げた。
「……え、泣いてんの?」
「あ……」
 悠仁に指摘されてようやく気づいたのか、脹相が濡れた頬を手の甲で拭う。
 どんな場所から呪霊が現れても冷静な男が、動揺している。そんな脹相の姿を見るのは意外で、でも悪くない気分だ。
「そんなに嬉しかった?」
 冗談交じりに尋ねると、脹相がやけに真剣な口調で言った。
「悠仁が生きてくれるなら、どんな場所でもついて行く」
 素直に嬉しいと思った。
 脹相が自分に向ける気持ちが純粋な兄弟愛だけなのか、悠仁が脹相に対して抱く感情がどんな種類のものか、たぶんそんなことは些細なことで、いまこうして二人で歩いている先に、ほんの少しの希望があることが大事なんだと思う。
 人殺しの自分が希望を持つなんて、おこがましいかもしれないけれど。
「俺、東北育ちで暑いのは苦手だから、涼しいところがいいな」
「熱帯でも極寒でも悠仁がいれば天国だ」
「……いやさすがに極寒は嫌かな」
 悠仁が笑うと、脹相も目尻にたまった涙を拭いながら笑う。
 今日も、明日も、呪霊を祓って、歩き続けて、また呪霊を祓う。
 そのうち、スマホを探す癖も消えるだろう。
 消えないのはきっと、罪の意識だけだ。
 罪を抱えて生きるのは脹相も同じで、自分たちたどる道が幸せなものだとは限らないし、二人とも生き続けられる保証もない。
 でも、二人で進んだ先に、祓った呪霊の数を数えなくてもいい夜があれば、それだけで十分だ。それぐらいの幸せなら許されるはず。
 あり得ない未来だと分かっていても、いまより先に思いをはせると、確かに気持ちが少し楽になった。

BACK TO NOVEL