知らない顔

 大学に入学して早一ヶ月。
 新しい環境にも慣れて、気軽に付き合える友人も増えた。住んでいるアパートは大学から徒歩十分。午前中の必修に余裕で間に合うから、毎週のように誰かしら泊まりに来る。
 賑やかな空間は嫌いじゃない。人と話すのは好きだ。食事だって一人で食べるより大人数で食べるほうが楽しいし、友人とくだらない話をしながら無駄な時間を過ごすのは学生の特権だ。あえて一人で行動する人間の気持ちが分からない―と真人はつい最近まで思っていたのだが……。
「悠仁、熱いから気をつけて食べるんだぞ」
「大丈夫だって」
「ざる蕎麦のほうがよかったんじゃないのか? そんな熱いものを食べたら舌が火傷するだろう」
「今日は日替わりラーメンの気分だったんだよ」
「お兄ちゃんがふうふうしてやろうか?」
「心配しすぎだって。兄ちゃんもはやく食べないと、うどんがのびちゃうよ?」
「今日も俺を兄と呼んでくれるんだな……悠仁の兄に生まれてよかった……」
「今日っていうか、生まれたときから脹相は俺の兄ちゃんじゃん」
「悠仁……!」
 感極まった様子で悠仁に抱きつく男を見ながら、ああ、またはじまった、と真人はうんざりした。
 三人が座るテーブルの周りから、「脹相先輩、またやってるよ」「あの二人ほんとに仲良しだよねえ」「俺の兄貴なんて弟のこと使いっ走りとしか思ってねえよ」「あんな優しいお兄ちゃんほしいなあ」と好意的な声が上がる。
 端から見たら兄弟が仲睦まじく食事をする微笑ましい光景かもしれないが、毎日のように目の前で同じやり取りをされる身にもなってほしい。この二人の茶番に巻き込まれるぐらいなら一人になりたい。なんならぼっちで便所飯でもいい、と真剣に悩むようになるはずだ。
 真人が学内でも有名なこの兄弟と知り合ったのは偶然からだった。
 入学してしばらく経った頃、学食に落ちていた財布を学生課に届けたら、それが悠仁のものだったのだ。「ありがとな」と人懐こく笑う悠仁は、「俺も一回生なんだよ。友達になろうぜ」と驚くほど嫌味のない気安さを見せて、真人はこいつすげえなと感心した。大学生にもなって、「友達になろうぜ」なんて素直な言葉を直球で言える奴はそんなにいない。
 ここまではいたって普通の出会いだった。が、そのあとすぐ悠仁を心配した脹相が学生課にやって来て、真人の顔を見た瞬間、「殴らせろ」と鬼の形相で迫ってきた。
 あの顔は本気だった。マジで死ぬかと思った。いま思い出してもちびるレベルで怖かった。悠仁と職員が止めてくれなかったら、真人は二十歳を迎える前に儚い命を散らしていただろう。脹相は「覚えていないのか」とか「死んで詫びろ」とか、物騒なことを喚いていたけれど、真人にはまったく身に覚えがなく、赤の他人から向けられた殺意がただただ恐ろしかった。
 そんな経緯から、悠仁には財布を拾った恩人兼友人として懐かれ、脹相にはなぜか目の敵にされている。
 今日も悠仁と一緒に学食へ向かっていたら、どこからともなく白衣姿の脹相が現れてきて、結局いつものように三人で昼食をとることになった。
 院生の脹相が所属する研究所は学部棟からかなり離れている。なのに、いつも絶妙なタイミングで真人と悠仁の前に現れる。
 白衣姿ということは実験の途中だったんじゃないのか、と嫌味を言おうものならゴミを見るような目で見下されるから、真人は沈黙を貫く。下手に刺激したらミンチになる。血のつながった兄弟特有の第六感か、それとも悠仁のスマホにGPSでも仕込んでいるのか、どちらにしろ、脹相の答えを知るのが怖くて尋ねる勇気はない。
「真人、調子悪いの? ぜんぜん食べてないじゃん」
 カレーにスプーンを突っ込んだままの真人を見て、悠仁が心配そうに言った。
「まあ、もうお腹いっぱいっていうか」
「え、じゃあ俺がそのカレー食べてもいい?」
「悠仁、やめなさい。ばっちいから」
 真人の皿に手を伸ばそうとした悠仁を脹相が制した。
 さすがにその発言にはいらっとする。
「ばっちくねえよ。お前、俺のことなんだと思ってんの」
「……人間に生まれてきたことに感謝するんだな」
 脹相が殺気を含んだ目で真人を睨む。
 なぜこんなにも毛嫌いされるのか。俺、なんもしてないんだけど。脹相とは大学に入学するまで会ったこともないのだ。これは断言できる。弟を溺愛するツインテの大男がそう何人もこの世にいてたまるか。
「兄ちゃん、真人は俺の大事な友達なんだからあんまりキツくあたんないでよ」
 悠仁が隣に座る脹相をたしなめる。
「悠仁、俺はこいつがお前にやったことを許せないんだ。いくら記憶がないからといって、こんな奴と友人になるなんて兄ちゃんは心配で心配で……」
「またその話? 俺はなんも覚えてないって言ってるじゃん」
「俺、悠仁になんかしたっけ?」
 真人が驚くと悠仁が首を横に振った。
「真人は気にしなくていいよ。兄ちゃん、俺のチャーシューあげるから落ち着いて」
「うっ……悠仁は優しいな……」
 うわ、泣きはじめたよ。こいつの情緒大丈夫か?
 脹相の悠仁に対する溺愛ぶりは尋常ではなく、大学生の弟に対する愛情を越えているように思う。悠仁に一度でも話しかけたことのある人間は家族構成からSNSの裏アカまですべて脹相に調べ上げられるし、弟を合コンに誘うおうものなら、翌日命があることに感謝するだろう。
 悠仁が脹相の度を越した干渉を嫌がっていないのも不可解だ。いい歳して弟離れできない兄を煙たがる素振りさえ見せない。
 変な兄弟だよなあ、と正面に座る悠仁の顔をまじまじと見ると、悠仁は麺を口いっぱいに頬張りながら「なに?」と目で尋ねてきた。
 なんでもないよ、と真人がかぶりをふったのと、脹相が立ち上がったのは同時だった。
「いきなり人の髪をつかむな」
「三下が騒ぐな。今日のプログレスレポートの担当はお前だろう。加茂教授を待たせるな」
 脹相のツインテールを大根でも引っこ抜くみたいにつかんでいるのは―。
「あ、裏梅先輩こんちは」
 悠仁が持ち前の明るさで挨拶する。
「気安く私に話しかけるな。それともようやく指の一本でもくれる気になったか?」
「いやあ、さすがに指は無理ですよ。箸が持ちにくいじゃないっすか」
 そういう問題か?
 裏梅は脹相と同じ研究室に所属していて、悠仁の顔をみるたびに「指をくれ」と詰め寄るヤバい先輩だ。はじめて会ったときに「久しいな」と言われたが、脹相といい、裏梅といい、自分の知らない人間が自分を知っているような口ぶりで話すのは少し気味が悪い。
「おい、俺の弟に少しでも触れてみろ。殺すぞ」
「まだ兄弟ごっこなんてしてるのか? 馬鹿め。お前は本当に進歩がないな」
「なんだと」
「うるさい。騒ぐな。行くぞ」
「あ、待て。まだ悠仁のチャーシューを食べてない……」
 裏梅にツインテを引っ張られながら、引きずられるように学食から去っていく脹相を見送る。
「嵐が去った……」
「二人とも元気だよなあ」
 悠仁は二人のやり取りに慣れているのか淡々と食事を続けている。
「あの二人、一緒の研究室なんだよな。なんの研究してるんだ?」
 加茂教授は生命科学の分野で有名な研究者で、優秀な学生しか彼の研究室に入れないと言われている。
 脹相と裏梅が優秀かはさておき、二人がどんな研究をしているのかは気になる。
「うーん、詳しくはよく分かんないんだけど、脹相は精子から俺の子どもを作ろうとしてて、裏梅先輩は指から俺のクローンを作ろうとしてる」
「……どっちもやばくね?」
「ねー、ふたりとも熱心だよなあ」
「いやいや、悠仁はなんでそんな冷静なんだよ。子どもも相当やばいけど、クローンってなに? なんでそんな研究してんの?」
「昔、俺とそっくりな奴に仕えてたんだってさ」
「わっかんねーな」
「分かんなくていいよ。真人がぜんぶ分かったら、俺、お前のこと祓わなきゃなんないし」
「祓うって……人を悪霊みたいに言うなよ」
 そこまで言って、違和感に気づいた。
 まるで悠仁も真人のことを以前から知っているような口ぶりで話している。
「……俺だけなんも知らない感じ?」
「たぶんそのほうが幸せだよ」
 悠仁がにこりと笑う。
「でもお前、兄貴にはなにも覚えてないって……」
「そのほうが脹相は俺に優しいから」
「えっ……」
「なにも知らないふりをして真人と仲良くしてると、心配性の兄ちゃんは俺をどこまでも大切にしてくれるんだよ」
 悠仁の顔から笑顔が消えた。
 脹相が真人に見せる殺気とは違う、底知れぬ冷たさを感じる殺意だ。
 悠仁のこんな顔ははじめて見た。
 まるで真人を憎んでも憎みたりないとでも言っているような表情だ。
 真人が言葉を失っていると、悠仁は打って変わって明るい口調で言った。
「何度生まれ変わっても、いつもどっちかが先に死ぬんだよ。この歳まで一緒にいられるのははじめてなんだ。だから、脹相が俺の隣にいるためだったらなんだってする。記憶がないって嘘もつくし、反吐がでるくらい嫌いな奴とも仲良くできる」
「……まじでなに言ってるか分かんねえよ」
 口の中がからからに乾いている。
「なんでみんな同じ時代に生まれちゃったんだろうなあ」
 そう言いながら悠仁がうつむくと、白い首筋に点々と散る赤い痕が目に入る。
 実の兄を「脹相」と呼ぶ悠仁は弟の顔をしていなかった。

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