修羅

 かみさま。
 少女は悠仁の腕のなかでそう呟いて事切れた。
 目を見開いて、縋るような視線を悠仁に向けたまま。彼女の瞳から光が消える瞬間、悠仁はかつてないほどの無力感におそわれた。
 また、人を殺してしまった。
 どうして自分以外の人間の存在に気がつかなかったんだろう。
 もやもやと舞う灰色の土ぼこりの間隙を縫うように聞こえたかすかな声。
「たすけて……」
 悠仁と同年代ぐらいの少女が瓦礫の下敷きになっていた。立ちこめる粉塵に咳き込みながら少女の体を引きずり出した。腰から下が、潰れていた。
 少女は焦点の定まらない目で悠仁を見上げ、命の灯火が消える寸前、小さく呟いた。
 かみさま。
 呪霊を追うのに夢中だったなんて、そんなの言い訳にならない。確かな手応えとともに呪霊を低層アパートの壁にたたきつけたのは紛れもなく悠仁自身だ。
 救える命だった。
 自分の使命は呪霊を祓うことで、誰かの命を奪うことじゃない。悠仁がもっと視野を広くとって呪霊と戦っていれば、この少女は死なずにすんだ。
 どれぐらいの間、その場にとどまっていたのか分からない。別行動をしていた脹相が現れるまで、悠仁は少女の死体を抱きしめ続けた。
「悠仁、合流地点にいないから心配したぞ。いったいなにをして……」
 顔を上げた悠仁の顔を見て脹相は絶句した。
「その血……どこか怪我してるのか?」
 ゆるく首を振る。脹相がほっとしたように「それはよかった」と言って穏やかな笑顔を見せる。脹相のそういう表情を目の当たりにすると、ほんの数日前に自分たちがぶつけ合った殺意はなんだったのだろうかと、不思議な気持ちになる。
「立ち上がれるか?」
 脹相が手を差し出してくる。その手を取ることはせず、じっと見つめたまま、悠仁は言った。
「俺が、殺しちゃった……」
 脹相はようやく悠仁が腕に抱いている少女の遺体に意識を向けた。だが、「そうか」と低い声で応えると、それきり関心を失ったようだった。
 特級呪物だった脹相が、人間の死に無関心なのは分かっていたことだ。別に脹相に励ましてもらいたかったとか、一緒に少女の死を悼んでほしかったわけではない。でも、いま一番近くにいる男に自分の気持ちを掬いとってもらえないのは、どうしようもなく寂しかった。
「神様なんているわけないのにな」
 脹相が黙っているので、悠仁は自分に向けて呟くように言った。
 悠仁はこれまでの人生で祈る対象を持ったことはない。祖父と暮らした家には神棚も仏壇もなかった。祖父はそういうもの、つまり目に見えない不確実な存在に願いを委ねるのを嫌った。
 よくも悪くも現実的な人で、生前、それを不思議に思って尋ねたら、強すぎる願いは身を滅ぼすからな、とやけに厳しい顔で言った。まるで誰かの過ちを咎めているようだった。
「悠仁、いつまでそうしているつもりだ」
 脹相の声音には明らかな苛立ちが混じっていた。
 いつ呪霊が襲ってくるか分からない状況で、同行者が肉塊を抱き込んだまま一向に動こうとしないのだから当たり前だろう。頭では分かっていても、悠仁は立ち上がれなかった。
 少女の血が自分の服に染み込んでくる。埃っぽい風に混じってあたりに臓物の血なまぐさい臭いが漂っている。
 自分が犯した罪が上塗りされていくような最悪な気分なのに、涙はまったく出なかった。
 涙が出ない理由は自分でもよく分かっている。ただ、認めたくないだけ。
「悠仁、いくら悲しんでも死んだ者は戻ってこないぞ」
 脹相が小さな子供をあやすような口調で言った。
「……それ、お前に言われるとけっこうキツい」
「弟たちのことを事故だと言ったはずだ。その人間も事故だと思えばいい。殺したくて殺したわけではないだろう?」
 問われて、悠仁はすぐに否定できなかった。
 殺したくて殺したわけではない。それは本当だ。だが、自分は呪霊を祓うことを楽しんでいた。周囲への注意を怠るほどに。
 アパート内にまだ人が残っている可能性まで気が回らなかった。
 呪霊狩りがあまりに楽しくて。
 呪霊を一体祓うごとに、自分の罪が消えていくような気がするから。追い詰めて、殴って、叩きのめして。呪霊が影も形もなく消える瞬間は気持ちがいい。認めたくないけれど、呪霊をいたぶる高揚感に酔っている自分がいる。
 そう、狩りの楽しさに自分はどっぷりはまってしまっている。
 底のない無力感に襲われても、どこか冷めた気持ちでいるのは、悠仁のなかで呪霊狩りの楽しさが人助けを上回っているからだ。
 俺、どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。
 誰かのために自分の命を使いたかったのに。嗜虐の楽しみを覚えてしまった。
 これも宿儺の力の影響なのだろうか。
 それとも、目を背けたくなるような獣性が自分のなかにもともと眠っていたのだろうか。
 少女の上半身を埃まみれの道にそっと横たえる。目を閉じてやっても、血と塵埃で汚れた顔に苦悶の面影は残る。
 彼女の信じる神様が空にいるなら、いま、そこから見えていますか。
 あなたを信じて死んだこの子は、どうして死んでからも苦しまなくてはいけないんですか。
「どこかで体を洗わないとな」
 立ち上がった悠仁に向かって脹相が言った。
 二人で並んで歩き出すと、自分の体にまとわりついている死臭が気になってしょうがなかった。

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