灯火
朝、その男は眠りから覚めた悠仁の顔を見ると、ほっとしたように小さく息を吐く。まだ夜闇の気配が色濃く残る未明。男が吐く息は白い。
「悠仁、よく眠れたか?」
「ああ」
毎朝、同じやり取りを交わす。「おはよう」「うん」「よく眠れたか」「ああ」。決められた台詞以外の言葉を発すれば、いま二人の間に保たれている均衡が崩れてしまうような、そんな危うさを秘めている。おそらく脹相も気づいているだろう。気づいていながらあえて決まりきった会話を繰り返す。だから、悠仁も気づかないふりをする。
悠仁の眠りは深い。目を閉じればなにも考えずに朝まで眠ることができる。対して、脹相は一睡もしない。身動きひとつせず、夜闇に耳をすませ、死んだ街が生む無音のなかで、じっと夜が明けるのを待っている。
精巧に作られた人形のように、同じ体勢のままで。
一晩中、悠仁の眠る姿を見続けている。
夜の間、ひとりでいったいなにを考えているのだろう。悠仁ははじめて脹相に対して興味がわいた。
「特になにも。待つのは慣れている」
尋ねると、脹相は無表情で答えた。
「ああ、お前封印されてたんだっけ」
「弟たちと共にな」
なんの感情もこもっていない口調で言うから、それが嫌味なのか、場を和ませる冗談なのか悠仁には分からなかった。
脹相は、弟たちを殺した悠仁を責めなかった。あれは事故だから悠仁が背負う罪ではないと言って、その話題を打ち切った。はじめて会ったときの怒りは消えていた。脹相のなかで、すべては終わったことなのだ。それでも悠仁は忘れることができない。あのときはっきりと感じた、自分が終わらせた命の感触を。
「……なあ、俺のこと、殺したいと思わねえの? 俺が寝てる間なら一瞬じゃん」
ずっと訊いてみたかったことだ。怒りは消えても、殺意が静かに残る場合だってある。
脹相は殺したいほど悠仁を憎んだ。
あのとき、脹相から向けられた強烈な殺意を思い出すと、悠仁はいまでも身震いする。
もしいまこの状況で脹相から襲われたら。おそらくいまの悠仁は本気で戦えない気がする。
「弟を殺したいと思うわけないだろう」
脹相が呆れたような口調で返してきた。
「俺のこと、許せるんだ」
半ば笑いながら言った。
人を助けて死ぬと決めたくせに、あの夜自分は多くの無実の人たちを殺して、結局誰も助けられなかった。
尊敬する先輩も、大切な同級生も。俺の目の前で逝ってしまった。
悠仁がなにも言えずにいると、脹相は淡々と言葉をつないだ。
「許すか、許さないかの二択しかないのであれば、もちろん許せない」
拳に感じた生々しい感触が蘇る。
脹相が許せないのも当たり前だ。悠仁だって肉親を殺されたら同じことを言うだろう。
そういうことを自分はしてしまったのだ。
どうやって罪を償えばいいのか。どうすれば許されるのか。
毎日同じことばかり考え、答えを出せず、その問いから逃げるように呪霊を祓っている。
「だが、二択しかないわけではないだろう」
脹相の顔を見返す。その表情からは相変わらずなにも読み取れない。悲しいのか、怒っているのか、それとも悠仁との会話を楽しんでいるのか。悠仁のことを本気で殺そうとしたときの殺気はどこへいってしまったのだろうか。
「俺が、弟たちを忘れなければいい。そのうえで悠仁のそばにいると決めた。俺はそういう選択肢を選んだだけだ」
脹相が言葉を吐くたびに白い息が浮かび、消える。
朝、目を開けるたびに自分の犯した罪を思い知らされる。
お前がこいつの弟たちを殺したんだ、と頭のなかで声がする。
「なんだよ、それ……」
ひと思いに殺してくれたほうが楽だ。
ずっと、誰かに裁かれたかった。殺した人たちの友人や家族から。そうすれば自分のなかにある罪が少しでも軽くなるような気がした。けれど、隣にいる男は、悠仁を責めることもしなければ、許しもしないという。
言葉に詰まっていると、脹相が俺の目の下にそっと触れた。殴り合ったことはあれど、こんなふうに触れられるのははじめてだ。
脹相の体温は思いのほか温かい。
「それに、悠仁を殺したら、お前が気持ちよさそうに眠る寝顔が見れなくなるだろう」
脹相が緩く微笑む。
その目にはじめて感情らしき火が灯った。
こんな自分をまるごと受け入れる男の底知れなさに肌が粟立つ。
それが喜びなのか恐怖なのか、俺には分からない。ただ、もう昨日と同じ関係ではいられないことだけは明らかだった。