遠い日の祈り

天馬の娘視点のお話です。十座はバイク事故で亡くなっています。

砂糖はスプーン三杯まで

「まだすねてるのか?」
 メニューをじっと見つめるわたしの向かい側で父がため息をもらした。
「だって、わたし悪くないもん」
 わたしは父の顔を見ずにそっけなく答えた。
 ストロベリーパフェかバナナパフェ。それともメープルシロップパンケーキにしようか。季節のフルーツタルトもおいしそう。
「そういう顔してると母さんにそっくりだな」
「いまお母さんの話はしないでよ」
 メニューから顔を上げて不満の声をあげると、父は「やっとこっち向いたな」とにやりと笑った。
 やられた。
 父の作戦にまんまと引っかかってしまった。
「なに食べるか決まったのか?」
「うーん、パフェにしようと思ったけど、なんかものすごく甘いもの食べたい気分だからストロベリーパンケーキにする。あとアイスカフェラテ。お父さんは?」
「ここのメニューはどれも重いからな……紅茶だけでいい」
 父がカウンターの前に立っているスタッフを呼ぼうと手を上げた。
 細い手首に浮かんだ薄い血管にはっとなる。また痩せた気がする。
 最近は薬も効いて調子がいいと言っていたのに。メニューのせいにしていたけれど、本当は食欲が落ちているのかもしれない。
 父の手首から目を逸らすように下を向くと、テーブルに置かれた携帯が震えた。
 相手は確認しなくても分かる。母からだ。
 短い振動ということは、着信ではなくメッセージを受信したらしい。メッセージの内容を想像して憂鬱になる。
 やっぱり勢いで家を飛び出したのは間違いだった。財布に入っていたお金は微々たるもので、ホテルに泊まるどころか外食すらままならない。それに、中学の制服を着たまま夜の繁華街を歩いていたら補導されてしまう。
 いくら母と喧嘩して頭に血が上っていたとはいえ、こんな見切り発車で家出をするなんて馬鹿だ。
 結局、父に電話をかけて事情を話し、駅まで迎えにきてもらった。
 家に帰りたくない、と項垂れるわたしを見て怒る気も失せたのか、父は乗ってきたタクシーの後部座席へわたしを促すと、なにも言わずにこのカフェへ連れてきてくれた。
「さっき母さんには連絡しといたから。今日はうちに泊まっていいぞ」
 注文を終えた父がわたしを宥めるように言った。
「え、ほんとに?」
「ただし、明日家に帰ったらちゃんと母さんに謝るんだぞ」
「だから、わたしは悪くないもん」
 先ほどと同じ言葉を繰り返すと、父は口の端を歪めて諭すように言った。
「喧嘩はともかく、お前がいきなり家を飛び出してオレたちがどれだけ心配したと思ってるんだ。心配かけたことに対して謝って、そのあとまた喧嘩すればいいだろ」
「なにそれ」
 ごめんなさいと謝ってからまた喧嘩するなんておかしい。
 それに、わたしは悪くないのだ。
 母にも、誰にも謝る筋合いはない。
「譲れないもんがあったんだろ?」
 父の優しい眼差しにわたしは少しだけ心が軽くなるのを感じた。
 やっぱり、お父さんはすごい。
 なんでも分かっちゃうんだ。
「うん。だって我慢できなかった」
「学校でなんかあったのか?」
「お母さんとお父さんのこと馬鹿にされた。ねえ、なんでわたしも反省文を書かなきゃいけないの? 手を出したって言っても、軽く肩を叩いただけだよ? お母さんにはもっと落ち着きなさい、大人になりなさいって言われるし……なんでよ」
 感情のまま話すと鼻の奥がつんと痛くなって、思わず両手でスカートを握りしめた。
「そうか、オレたちのために怒ってくれたんだな」
 父の言葉に胸が軋んだ。
 両親を同級生に馬鹿にされたのは嘘じゃない。
 でも、本当はその続きがあった。
 それを父に伝えるかどうか迷い、わたしは話さないことに決めた。
 同級生が放った言葉。
 ――お前、父親に似てないもんな。
 そのひと言はわたしを激高させるに十分だった。
 肩を叩いた拍子に、同級生はバランスを崩して後ろに倒れ、後頭部を廊下の壁に強くぶつけた。
 騒ぎを聞きつけた教師がやってきて、わたしたち二人の仲裁に入り、双方の言い分を聞いた後、どちらも相手への敬意が足りないという審判が下され、反省文を書かされた。
 思わず手が出てしまったのは、幼いころから気にしていることを面と向かって言われて我慢ができなかったからだ。
 両親のためでも、正義感があったからでもない。
 そんな言葉で傷ついた自分が許せなくて、かっとなってしまった。
 父と似ていないなんて、そんなのわたしが一番よく分かっている。
 両親も、誰も教えてくれないけれど、わたしはきっと父と血がつながっていないのだろう。
 顔のパーツも、髪の色も、少しも父に似ていない。
 でも、それがなんだ。
 父はわたしを誰よりも大切に思ってくれている。だから、例え本当の親子じゃなくても、わたしたちは正真正銘の家族だ。
 注文した食事が運ばれてきて、テーブルが一気に華やかになった。
 パンケーキにたっぷりかけられた生クリームをうっとり眺めると、荒んだ気持ちがみるみるうちに落ち着いてくる。
「やっと機嫌がなおったな」
「甘いものを前にして不機嫌になる人はいないよ」
 焼きたてのパンケーキにナイフを入れる。崩れないように慎重に。ふわふわでなんておいしそうなんだろう。
 ナイフで切り分けた金色の欠片に生クリームとストロベリーソースをからめて、口いっぱいに頬張ると、期待どおりの甘さにとろけそうな心地になる。
「本当にうまそうに食べるなあ」
 父がスプーンでシュガーポットの砂糖をすくいながら言った。
 きっちり三杯。父は昔からスプーン三杯の砂糖を紅茶に入れる。毎回毎回、まるで誰かとの約束のように。
 気になって尋ねたことがあったけれど、「ただの癖だよ」とはぐらかされた。
「そういえば、ここのパンケーキはうまいってあの人も言ってたな」
 父がぽつりと呟く。無意識の独り言だろうか。
 ティーカップの取っ手に指をかけたまま、いっこうに紅茶を飲む気配はない。
 あの人って誰だろう。
 パンケーキを口に運びながら、わたしは頭の隅になにか引っかかるものを感じた。
 あの人。甘いものが好きな人。父と食事に行くほど仲が良かった、過去形で語られる人。
 そして、わたしは突然、あの日の出来事を思い出した。
 二年前の誕生日、劇場の楽屋の片隅で寂しそうに佇んでいた人。
 兵頭十座さんだ。
 なんでいままで彼のことを忘れていたんだろう。
 あの日、「兵頭家」のお墓の前で感じた寄る辺ない気持ちが蘇ってきて、急に胸が苦しくなった。
 口に頬張ったパンケーキを冷たいカフェラテで流し込む。
 父はこの店に兵頭十座さんと来ていたのか。
「どんな人だったの?」
 触れてはいけないような気がしたが、好奇心に勝てなかった。父の大切な部分に踏み込もうとしている自分は、あの同級生ときっとなにも変らない。
「ああ、声に出てたか。そうだな……」
 ようやく紅茶をひと口飲んで父が言った。
「お前みたいに、家族想いの優しい人だったよ」
「ここも一緒に来たの?」
「もうずいぶん昔だけどな。甘いものが好きな人だったから」
 父はわたしの質問に嫌な顔ひとつせず答えてくれたが、兵頭十座という名前を口には出さなかった。
 十二歳の誕生日にわたしにだけ見えた人。
 あの日、お墓参りをしたあとなにをしたんだっけ。
 レストランで食事をして、井川さんの運転で夜の街をドライブして、たぶん普通の誕生日を過ごしたはずだ。
 あれから父とわたしの間で彼の話題がのぼることはなかった。だから日々の雑多に紛れてだんだんと記憶が薄れていったのだろう。幽霊を見たという、あんなに強烈な体験ですら忘れてしまうことに驚いた。
 そんなわたしとは違い、父はいまでもずっと兵頭十座さんを想っている。
 二人分の思い出をたった一人で抱えながら。
 一緒に訪れた場所はいったいどれくらいあるのだろう。二人で過ごした時間が消えない傷痕のように父の心に残っている。
 砂糖をきっかり三杯入れるのだって、長年の癖ではなく、そうやってあの人のことを思い出しているのだとしたら。
 忘れないように。兵頭十座さんと過ごした記憶が薄れないように。父は彼のいない日常に密かな思い出を刻み込んでいく。
 悲しい、とは違う、この気持ちをうまく言葉にすることができない。
 いま、父の目の前に座っているのがわたしではなく、兵頭十座さんだったらどんなにいいだろう。
 もうこの世にいない人を想い続ける父の感情を推し量れるほどわたしは大人ではない。
 父ぐらいの歳になったら、そういう複雑な気持ちも分かるのだろうか。
 父と母が結婚したこと、父が血のつながらない娘を育てようと思ったこと、父と兵頭十座さんの関係。
 もう少し大人になったら訊いてみよう。
 いまはまだ受け止めきれない。
 生クリームとストロベリーソースが染み込んだパンケーキを口に含む。
 幸せな甘さに自然と笑顔になってしまう。
 そんなわたしの顔を見て、父も目を細めて笑っている。
 なぜか涙がこぼれそうになって、わたしは喉にぐっと力を入れて甘いパンケーキを飲み込んだ。

明るい話ではないですが、二人の関係を第三者視点で語る話が好きなのでけっこう気に入っています。
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