最良の日々
時系列でお話が進みます。順番にお読みください。
夜が明けたらむかえにきて
妙に目がさえて眠れない夜だった。
締切の近い原稿をいくつか抱えていて、限界まで酷使している脳は確かに休息を求めているのに、目蓋を閉じてもいっこうに眠くならない。仰向けから右へ左へ寝返りをうち、それでも眠れないので俯せになると今度は胸が圧迫されて息苦しい。結局また仰向けになって何度か深呼吸してみた。今度は静かな寝室に響く自分の呼吸音が不気味でさらに眠れなくなる。寝ようとするから眠れないのだ、と言い聞かせて頭のなかを空っぽにしようとすればするほど眠りのしっぽが遠ざかっていく。
寝室をひっそり包む闇の濃さが薄くなりはじめ、夜明けが近いことが分かった。頭が重い。もう諦めて起きてしまおう。眠れない夜と格闘することほど疲弊するものはない。円はベッドサイドテーブルに置いた眼鏡に手を伸ばした。
指に触れた固いものが急に震えた。どうやら間違ってスマホを掴んでいたらしい。
こんな時間にアラームを設定した覚えはないし、夜明け前に電話をかけてくるような非常識な友人や知人はいないと思いたい。
画面表示を確認する。一瞬、夢でも見ているのかと思った。
そこには友人でもなければ知人でもない、数年前に別れた元恋人の名前が表示されていた。
拒否することもできたのに、円の指は条件反射のように通話アイコンをタップしていた。
「円、ひさしぶり」
遠い記憶の彼方に埋もれた声が円の名前を呼んだ。ひさしぶり、とまるで二人の間になにもなかったかのように。
スマホを持つ手に力がこもる。
ひと思いに通話を切ってしまおう。いま切れば、何事もなく日常に戻れる。荒川志太という男のいない日常に。
そんな円の思いを見透かすように、志太の声が耳に届いた。
「あれ、これつながってる? 円の番号だよね?」
「……うん」
電話を切るという選択肢をすっかり諦め、円はようやくひと言だけ返事をする。口のなかが乾いて声が掠れた。
「あ、よかった」
志太の声はどこか舌っ足らずで、語尾が間延びしていて、おそらく酒を飲んでいるのだろう。しかも、何年も会っていない元恋人に『久しぶり』なんて無邪気に言えるほど酔っている。
酔った勢いで気まぐれに電話してきたのが丸わかりだ。
本来ならここで怒るべきなんだと思う。「こんな時間に電話してくるな」と言って電話を切ったあと、着信拒否にしてしまえばいい。それですべて終わりだ。眠れない夜と元恋人のいたずら電話にさよならして、新しい一日をはじめればいい。
円はスマホを握りしめたまま、薄暗い寝室の天井を仰ぐ。
でも、と円は躊躇する。もし志太がなにか理由があって電話をかけてきたのだとしたら?
その理由も訊かずに着信拒否にして、自分は安眠できるとでも?
途方にくれていると、志太のほうから沈黙を破った。
「円、俺いまマンションの下にいるんだけど……」
「え、こっちに来てるの?」
身体が強張った。スマホを持っていないほうの手でシーツを握るつもりが、なにもつかめなくて、掌に爪が食い込んだ。痛みが円をほんの少し冷静にさせた。動揺を悟られないように、小さく深呼吸する。
「円、いまもまだ同じマンションに住んでるんだよね」
「なんで……」
円の居場所を志太は知らないはずだ。
「晴翔さんから聞いた」
晴翔には特に口止めはしていない。それは志太が円の居場所に興味を持つはずがないと思ったからだ。
円は志太が出て行ったあとも同じマンションに住み続けているけれど、それはけっして志太が戻ってくるのを期待したからではない。本棚に入りきらない蔵書を片付けるのが面倒だっただけで、そこに変な感傷も期待もなかった。が、いまはなにを言っても言い訳になりそうで、円はため息をひとつつくと、「そうだよ、まだ住んでる」とだけ言った。
「会いたいんだ、円」
円が断れないのを分かっている甘えた声だった。
どこまでもずるい男だと思う。
円と一緒に暮らしている間も、他の女性と付き合っているそぶりなど見せず、突然「結婚するから」と言って出て行った男。「円とは家族になれない」と去っていった男。それはお互いの愛情を信じていた日々を壊すには十分な言葉だった。
憎んでしまえば楽になると何度思ったことか。けれど、頭の神経が焼き切れるような怒りの果てに襲ってきた無力感のなかで、円はそれでも志太のことを嫌いになれなかった。
一緒に過ごした時間が幸せすぎたのだ。
それらすべてを黒く塗りつぶす勇気が、円にはなかった。
そしていまも、真夜中にかかってきた電話を切れないでいる。心のどこかで、声が聞けることを喜んでいる。
「そこで待ってて。下に行くから」
志太の返事を待たずに電話を切った。
ナイトテーブルに置いてあった眼鏡をかけ、クローゼットから適当なカーディガンを選んで肩に羽織り、鏡も見ずに外に出た。きっと寝不足でひどい顔をしているだろう。
空は濃紺の絵の具を水で薄めたような色をしていて、まだかろうじて夜の気配が残っている。でも夜明けはすぐそこだ。
夜と朝の隙間を縫うようによろよろと廊下を歩く。
エレベーターを待つほんの僅かな間、このまま家に戻ってしまおうかと思った。しかし、電話で苦しそうに話す志太が、もう一歩も動けないほど疲れていたような気がして、過去を振り切るようにエレベーターに乗り込んだ。例えあの声が演技だったとしても、会わなければ後悔すると思った。
志太は植栽を囲う煉瓦の上に座っていた。
背中を丸めて俯いている姿はやはり疲れているように見えた。白いシャツには皺が寄っていたし、どこかで転んだのかデニムの裾には茶色い汚れがついている。
二年、いや三年ぶりだ。記憶のなかの志太とほとんど変わっていない。もう一度会って話がしたいと思っていた時期もあったけれど、実際に本人を目の前にすると、言葉が詰まってなにも言えなかった。
「本当に来てくれたんだ」
志太が顔を上げて言った。
エントランスの外灯に照らされた目元が赤く腫れている。
アルコールの不快な匂いがあたりに漂い、円は思わず手で口を覆った。志太でもこんな酔っ払い方をするのかと驚いた。
「飲み過ぎじゃない?」
「分かる?」
「分かるよ。何日もシャワーを浴びてない匂いがする。自分で立てる?」
「たぶん」
「腕つかんでいいよ」
円の腕をつかみ、唸りとも言葉とも分からない声を出しながら志太が立ち上がった。
「歩ける?」
志太が「んー」と喉の奥で唸るように返事をする。
喋るのが億劫なほど酔いがまわっているのだろう。
腕に志太の指を感じる。この指に何度も触れられて幸せだった頃を嫌でも思い出してしまう。もう戻らない日々。志太が捨てて、円が拾うのを諦めた思い出たち。粉々になった過去に胸が切り裂かれる。
覚束ない足取りの志太を支えるようにしてエレベーターに乗り込み、階数ボタンをすばやく押した。
「俺たちの部屋、五階じゃなかったっけ?」
俺たちの部屋。まるでそこがいまでも志太の返る場所であるかのような言い方だ。
膝から崩れ落ちそうなほどふらついて、空気が話しているようなかすれた声をしているのに、視界ははっきりしているらしい。できれば気づいてほしくなったと思いつつ、質問を無視するわけにもいかず、ごく簡単に説明した。
「去年、同じ間取りの部屋が売りに出てたから買ったんだ。前の部屋の賃貸契約がきれたから。他の物件を探すのも面倒だったし」
「買ったって……マジで?」
「こんなときに嘘なんかつかないよ」
志太は突然酔いが冷めたような顔で円を見返した。
あきらかに戸惑っている様子だ。やはり言わなければよかったかもしれない。円はあくまでも軽い口調を崩さず重ねて説明した。
「別に志太を待ってたとかじゃないから。静かに執筆できる環境を手放したくなかっただけだよ」
志太が呆けたような目で円を見つめる。
別れた恋人と住んでいた部屋とまったく同じ間取りの家を買うなんて、自分でもどうかしていると思う。
二人の関係を知る晴翔は、別れたあとも志太と暮らした部屋に住み続ける円に対して、何度も引っ越しを勧めたが、円が家を買ったと報告すると、諦めたように「理解できない」とだけ言った。
円だって自分で自分が理解できなかった。
志太に言ったことは嘘ではない。新しい部屋に大量の本と資料が収まるかどうか悩むのも嫌だったし、住み慣れた環境から離れるのも気が進まなかった。交通の便がよく、騒音に悩まされない物件はそうそう見つからない。悩んだ挙げ句、積極的な選択ではなく、消去法でそういう結果に落ち着いただけだった。そう自分で自分を納得させた。
あのときの自分はまともじゃなかった。おそらく感傷など感じられないくらい心が麻痺していたのだろう、といまなら冷静に自己分析できる。
冷静に。本当に?
いまこうして志太を支えている自分は、家を買ったときと同じようにまともじゃない。
エレベーターが七階に止まり、入ったときと同じように志太の身体を支えて廊下を歩いた。
酔っているせいか、円の腕をつかむ志太の掌が熱い。
ただの酔っ払いを介抱しているだけだ。この行為に特別な意味などない。けれど、腕に感じる志太の体温は、心の奥に閉まっていた志太への気持ちを蘇らせるには十分で、その感情を見て見ぬふりできるほど円は強くなかった。
自分は弱いのだ。
志太のように選ぶことができないから。
玄関の扉は鍵が開いていた。いったいなにを焦っていたんだろう、と苦笑してしまう。いまさら志太がどこかに行ってしまっても、自分の人生になんの関わりもないことなのに。
リビングのソファーに志太を座らせると、円はキッチンに飲み物を取りに行った。冷蔵庫はほぼ空だった。未開封の牛乳パックが一本。編集者からもらったフルーツゼリーはおそらく賞味期限が切れている。
「コーヒー飲める?」
カウンターからソファーに座っている志太に尋ねると、
「うん」
と返ってきた。
水を入れた電気ケトルの電源を入れ、インスタントコーヒーのパックを戸棚から見つけ出し、消費期限を確かめる。一ヶ月前の日付が印字されているがたぶん大丈夫だろう。粉は腐らない。
お湯を沸かしている間、志太はなぜ円に会いにきたのか言おうともしなかったし、円も尋ねなかった。尋ねてしまえばすべてが終わってしまう気がした。
世間話ができるような雰囲気ではなかった。
仕事柄、舞台の脚本だけでなく、小説やエッセイ、依頼があれば書評も書いているのに、三年間という時間の空白を埋めるための言葉を見つけることができない。
茶色い粉末を入れたマグカップにお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。少し考えてから、マグカップをもう一つ取り出して自分にも同じ濃さのコーヒーを作った。
「はい、熱いから気をつけて」
志太にマグカップを渡して、ソファーの隣に座る。「ありがとう」と言って志太がコーヒーを飲み、円も自分のマグカップに口をつけた。頭が痛くなるほど濃かった。一口だけ飲んでマグカップをテーブルに置いた。
「円、コーヒー飲むんだ」
「もらい物だよ。普段は紅茶派」
「だよな。俺がいつも飲むやつより美味い」
消費期限が切れてる粉だけど、とは言わなかった。
「眼鏡」
「え?」
「円、眼鏡かけてる」
「ああ、これね。去年からかけはじめたんだ。視力が落ちちゃって」
「仕事忙しいの?」
「有り難いことに毎月なにかしらの締切があるよ。いまは小説の仕事が多いかな」
「先月の雑誌に載ったやつ読んだよ。双子の連続殺人犯の話。おもしろかった」
驚いた。ミステリ専門の文芸雑誌に載った小説を志太が読んでいたとは思わなかった。「ありがとう」と言うと、はじめて志太が笑顔を見せた。力のない笑みだったけれど、目尻を下げて笑うのは、三年前と同じ、円の好きな笑顔だった。
張り詰めていた空気が緩み、円は思い切って志太に尋ねた。
「どうして会いに来たの?」
志太は答える代わりに両手で持ったマグカップの中身をじっと見つめている。そこには黒い液体しかないのに。
別れたばかりの頃は、心のどこかでまた志太と会えると思っていた。結婚して新しい家庭を持った男が、ある日ふらっと戻ってくる、そんな愚かな想像もした。泣いている円の隣に座って、「結婚するなんて冗談だよ」と笑う志太の夢も見た。しかし、志太のいない日常に慣れてくると、二人で過ごした日々こそが幻だと思うようになり、怒りも執着も消え、残ったのは真っ白な原稿と締切だけだった。
円はテーブルに置いたマグカップに手を伸ばして、志太と同じように両手で包んだ。まだ温かい。牛乳を足せば飲めるだろうかと考えていると、
「ごめん」
志太が聞き取れないほど小さな声で謝った。
その謝罪にどんな意味があるのだろう。
こんな時間に会いに来たから?
それとも、円を置いて出て行ったことを?
もし、円の知らない女性と結婚したことを謝ったのだとしたら、それは三年前にするべきだったと思う。
「僕に会いに来た理由を訊いてるんだけど」
棘のある口調になったのを志太も気づいたのだろう。
ようやくコーヒーを見つめるのをやめて円のほうを向く。志太が身体を動かした拍子にお互いの膝がぶつかった。過剰に反応するのもどうかと思って、触れるままにしておいた。
「子どもができたんだ」
志太は円を驚かす天才だと思う。
いや、傷つける天才か?
志太が結婚したとき、円は自分が傷ついたと思いたくなかった。傷を認めることは、好きな人に裏切られた自分と向き合うことになるからだ。そんな惨めな人間になりたくなかった。だから傷を縫うのではなく、流れた血が固まってかさぶたで覆われるまで傷口を放置した。そしていま、志太はそのかさぶたを無理やり剥がそうとしている。無遠慮に、なんの慈悲もなく。
心の奥に感じる痛みを無視しながら志太に尋ねる。
「おめでとうって言えばいいのかな?」
「俺の子だったらそれもありかな」
口角をあげて志太が小さく笑う。
「……志太の子じゃないの?」
「一年以上同じベッドで寝てないのにどうやったら俺の子を妊娠できるんだよ」
自嘲気味に志太が言い放った。声が震えていた。もしかしたら泣いていたのかも知れない。片手で前髪を掻き上げたあとに見えた瞳が少し濡れていた。気まずいときに前髪を掻き上げるのは志太の昔からの癖だ。
「それで僕に相談しにきたの? 同じ浮気された者同士なら分かりあえるとでも?」
きつい口調になったのが自分でも分かった。怒りで頭の奥がじんじんと熱い。ぐっと目に力を入れて、泣くのだけはどうにかこらえた。傷ついて泣いたと思われたくない。
三年ぶりに会いに来た理由が、子ども。
それを元恋人に相談しに来るなんて理解できない。
電話の弱々しい声にほだされて、志太を家に上げた自分が馬鹿だった。
志太はいつだって周りを振り回す。いい意味でも悪い意味でも。昔からそういう人間だ。自分のことしか考えていない。それをよく知っているのは他でもない円自身なのに。
円はソファーから立ち上がると同時にうなだれる志太の腕をつかんだ。
「出て行って」
「円……」
「もう、会いたくない」
きっぱりとした拒絶だった。
それを志太も感じたのだろう。諦めたようにゆっくりとソファーから立ち上がった。
惨めだった。志太に捨てられた三年前よりも。
かさぶたが剥がれた場所は、脆く、弱く、修復不可能なほど傷ついて、そこから広がる痛みはきっともう永遠に消えない。
そう、消えないのだ。ぜったいに。志太と別れたときからずっと、円は消えない痛みのなかで生きている。
立ち上がってもいっこうに部屋から出て行こうとしない志太を、円は見上げながら睨んだ。
この身長差が、いまはただ憎い。
「……ダメだったんだ」
円から目を逸らして志太が言った。
「は? なにが?」
睡眠不足と怒りで言葉を繕うことができない。円の鋭い問いかけに、志太はおずおずと「昨日、彼女が急に出血して」と答え、少し逡巡した様子を見せると、
「……病院に行ったら流産してた」
と言った。
「それは……」
残念だったね、という言葉が喉まで出かかった。
円の正面に立っている志太は、アルコールで濁った眼差しがいっそう暗く澱み、こちらの反応を覗うように話を続けた。
「彼女、笑ったんだ」
「笑った?」
「これでやっと二人の赤ちゃんを作れるねって。満面の笑みだった」
志太の手が震えている。
円はなにも言わず志太の言葉を待った。
「気づいたら、円に電話してた。病院から飛び出して、適当な店に入って、ひたすら飲み続けて、なにを何杯飲んだのかも覚えてなくて、いつの間にかタクシーに乗ってた。目が覚めたらこのマンションの下にいた」
「無意識にここの住所を言ったってこと?」
「そうみたい」
「なにそれ」
怒りを忘れて思わず苦笑してしまう。三年も経っているのに。無意識に伝えた住所が自宅ではなくこのマンションだなんて。志太の頭のなかはいったいどうなっているのだろう。
「ずっと円に会いたかったんだと思う」
志太が前髪を掻き上げた。
腫れぼったい目元が潤んでいる。
「そんなの、いまさらだよ」
いまさら再会しても、自分たちは前に進むことができない。
傷つけた者と傷ついた者でしかない。その二人の間を埋める言葉も行為も、どうやったって見つけられない。
志太が弱った声で話を続ける。
「俺、彼女が他の男と子どもを作ったのは俺を引き留めるためだって、分かってたんだ。母子家庭で育った男が、子どもと奥さんを置いて出て行くはずないからね。それでいいと思った。彼女の本心がどうだったとしても、家族にはなれるから。でも、あの笑顔を見た瞬間、怖くなった。あんなふうに縋られたらどうすればいいか分からない」
三年前、もし円が泣きながら志太を引き留めていたら、違う未来があったのだろうか。
行かないで、別れないで、まだこんなに好きなのに。
そう言って縋りつけばよかったのだろうか。
志太がそれを望んでいたとしたら、やはりあのとき別れて正解だったのかもしれない。
誰かに縋りつくような恋はしたくない。
あんな切れ味のいい別れの言葉を投げつけられて、それでも相手に愛を乞えるほど、円は卑しくはない。もしかしたら、そういうプライドの高さが、志太には面白くなかったのかもしれない。
円とは家族なれないと志太は言った。あの言葉がどれだけ円を打ちのめしたか志太は知らないだろう。
生まれ育った家はいつも静かで寂しかった。志太と一緒に暮らした部屋は明るくて、賑やかで、幸せがあふれていた。
自分の家族よりも、誰よりも志太が大切だった。志太も同じだと思っていたのに。
志太の未来に円はいなかった。だから出て行ったのだ。志太の家族を作るために。
自分を捨ててまで作りたかった家族だ。それを簡単に捨てるなんて、それこそ円のプライドが許さない。
「簡単なことだよ。いますぐ彼女に電話して一人にしてごめんって謝ればいい。それですべて解決するよ」
「できないよ」
「できなくても、するんだよ。志太が出て行ったあと、僕が毎日願ってたのは、玄関の扉が開いて、志太が笑いながら『ただいま』って戻ってくることだよ。馬鹿みたいだよね。笑いたければ笑えばいい。毎日毎日、ぜったいあり得ないと思ってるのに、それでも戻ってくるかもしれないって希望を捨てられない。そんな惨めな思いを志太の家族にさせるのは嫌だよ」
こめかみが焼けつくように痛い。
目の奥がじんじんと痺れる。体のなかに怒りが渦巻いて、気を緩めたら叫んでしまいそうだ。
ぐっと両手を握りしめる。
どんなに声が震えても、涙だけは流さない。どんな理由であれ、志太のために泣きたくない。
泣いたらきっと縋ってしまう。
行かないで、と言ってしまう。
「ごめん」
志太の顔が歪んだ。「ごめん、円」と謝りながら円の肩に頭を乗せる。
その重み、温かさ。こみ上げてくるのは二人で過ごした時間の懐かしさと、もうこの人は自分のものではないという悔しさ。
寄りかかってくる志太を振りほどけないほど、円は疲れていた。一睡もしていない上に、突然志太が会いにきたことに混乱していたし、三年前の別れを思い出して、感じないようにしていた痛みが蘇り、胸がつぶれそうなほど苦しかった。
円の肩に頭を埋めたまま、志太が言った。
「俺、円が大好きだったよ」
なにを言うかと思えば。それこそいまさらだ。
「僕はいまでも志太が好きだよ」
二人の関係はとっくの昔に消費期限を迎えたのに、円だけがまだ過去に取り残されている。
「でも、同じくらい志太のことが憎い」
志太が顔を上げた。
二人の視線が交わる。
これで終わりだと思った。
「タクシー呼ぼうか?」
円が尋ねると志太は首を横に振った。
「大丈夫。始発が動いてるから」
「そんなよれよれの姿を週刊誌に撮られたら一大事じゃない? 映画の公開が近いんでしょ」
「俺、そんなにひどい?」
「頭からゴミ箱に突っ込んだみたいだよ」
それはひどいな、と志太が弱々しく笑う。
自然と二人の体が離れる。
志太は「一人で歩けるから」と円の支えを断った。
志太が玄関の扉を開けようとして、少し躊躇したあと円を振り返った。
「円……」
志太がなにか言いたそうな顔をしている。
円、またね。
そんな言葉、ぜったいに言わせない。
「志太、さよなら」
志太は小さく開けた口をぎゅっと結ぶと、覚悟したようにうなずいて玄関の扉を開け、そのまま振り返ることなく出て行った。
扉が閉まる瞬間、白んだ空が見えた。
夜が明ける。
また一人の朝が来る。
玄関の鍵を閉めるとき、掌に残った三日月型の爪痕が目に入った。痕が残るほど強く握りしめていたのか。いまごろになって痛みを感じる。
玄関にはまだアルコールの匂いが残っていた。