最良の日々
時系列でお話が進みます。順番にお読みください。
最良の日々
休日の映画館は混んでいた。
フードカウンターから伸びる列と開場までロビーで時間をつぶしている客が混ざり合い、それに自分のように待ち合わせをしている人たちが加わって息が詰まりそうだ。誰かの肩がぶつかって横によけると、今度は誰かの足を踏んでしまう。先ほどからずっとこの調子で、やっぱり来なければよかったと心のなかで嘆息する。
志太から映画に誘われたときは驚いた。なんとなくそういう賑やかな場所は晴翔と一緒に行くイメージだったから。
「バイト先の先輩が映画のチケットをゆずってくれたから一緒に観に行こう」と言われて、「人混みが苦手だから」と断るつもりだったのに、「何時にする?」と人懐こい笑みで尋ねる志太に断る隙を与えられないうちに、いつの間にか待ち合わせ時間が決まっていた。帰宅してから断るのも気まずくて、気が乗らないまま当日を迎えてしまった。
我ながら意思が弱いなと思う。
そもそも、なんで自分を誘ってくれたんだろう。まだ知り合って間もない円より、気心の知れた友人と映画を観たほうが楽しいはずなのに。
志太には友人が多い。高校の同級生やバイト仲間。志太と話すと何人も友人の名前が出てきて、円は誰が誰だか分からなくなる。ただ相手の話しを聞いて流されるようにうなずくだけの自分は、おそらく志太の友人とはいえない。だから、志太が友人と話すとき、自分の名前が出ることはないんだろうなと心のどこかで思っている。
そして、それを寂しいと思ってしまう。
ここ数年、休日は専ら脚本を書くための資料集めや執筆で潰れてしまい、せっかくの誘いも忙しいからと断り続けていたら、誰も円に話しかけなくなった。もともと一人で本を読むほうが好きだし、周りに人がいなくても特に生活に支障がないので、あえて交友関係を広げようと思わない。平日は学校と家の往復、休日は自室に引きこもり、たまに時間ができたときに祖父の蔵書を手に取るのが唯一とも言える楽しみだ。
そんな生活に特に不満はないけれど、志太と知り合ってから、友人の名前を一人も言えない自分が少しだけ恥ずかしい。
しかも二人きりで会うのは今日がはじめてだ。話し上手の晴翔がいなくても会話が続くだろうか。映画の感想をきちんと伝えられるだろうか。考えれば考えるほど、落ち着かない気持ちになる。
人混みのなかから志太を探そうとする。けれど、前後からぶつかってくる人に邪魔されて思うように探せない。平均より低い身長と映画館のような賑やかな場所に慣れていないせいで、どうしたって人の波に埋もれてしまう。
肩に掛けた鞄を命綱のようにぎゅっとつかむ。
場所を変えて待とうかと思ったとき、誰かが「志太」と呼ぶ声が聞こえた。
声のしたほうへ顔を向けると、円の立っている位置からそう離れていない場所で、志太が数人の男女に囲まれていた。
高校の同級生だろうか。今日観る予定の映画は話題作だから、知り合いに会ってもおかしくはない。
自然と志太が中心になるような立ち位置になっていて、それだけで彼が学校でどういう存在なのか分かった。
同年代の男子と比べて飛び抜けて高い身長と、人目を引く華やかな容姿。人懐っこくて明るい性格。自ら望まなくともクラスのリーダーになるようなタイプ。嫌いになるほうが難しい。
声をかけることもできず、様子を覗っていると志太と目が合った。志太の顔がぱっと明るくなる。その顔を見た同級生たちが驚いた顔で円を振り返る。とっさにうつむいた。
飼い主を見つけた子犬を思わせる志太の笑顔に、自分でも驚くほどドキドキしている。
「円、ごめん。待った?」
友人たちの輪から抜けて円と合流した志太が申し訳なさそうに言った。
「そんなに待ってないから大丈夫」
「クラスの奴らに会っちゃってさ」
志太を囲んでいたグループに視線を向けると、女の子が名残惜しそうにこちらを見ている。もちろん円ではなく志太に気づいてほしいのだろう。
「もしかして志太さんって、モテるの?」
「うん」
なんの迷いもない返事にびっくりする。
「自信あるんだ」
「自信っていうか事実だから。別に隠すことじゃないし。ってかタメ口でいいって言ったのに、なんでさん付けなの?」
「いきなりは無理だって」
「いきなりじゃないよ。もう知り合って一ヶ月以上経つのに」
「そういうの慣れてなくて……」
円の苦しい言い訳に、志太が不満そうな顔をする。
志太が嫌がるので敬語は使わなくなったけれど、未だに名前を呼び捨てにするのは難しい。
自分のほうが年上なのだから、気にしなくていいと分かっている。が、どのタイミングで呼び捨てに移行していいのか、友人のいない円にはそのきっかけがつかめない。本当は円も志太の同級生のように気軽に名前を呼んでみたいのに。
「これ、円に渡しとく。もう座席券と引き換えてきたから」
作品名と上映時間、座席が印字された小さな紙を渡される。待ち合わせに少し遅れたのは、チケットカウンターに並んでいたからで、円の分のチケットは当日渡すからと言われたのも、こうして事前に一緒に引き換えるつもりだったからだろう。
さっと座席券を差し出す手つきといい、デート慣れしているような気がする。その事実をどう捉えていいものか。自分のなかに生まれる感情をうまく言葉にできない。
開場時間が近くなり、混雑の密度が増す。フードカウンターへ視線を向けていた志太が、ぱっと円のほうへ向く。
「円、なんか飲む? ドリンク買ってくるよ」
「え、いいよ。すごい並んでるし」
「俺が喉渇いてるから。円はポップコーン派? それともチュロス?」
「こういうとこで食べたことないから分からない」
「じゃあ、両方食べよ。バイト代でたばっかりだから俺におごらせて」
さすがに年下の高校生におごってもらうのは気が引けた。
けれど、志太がじっと見つめてくるので断ることができなかった。
いや、断る雰囲気を作らせなかったというほうが正しい。けっして強い言葉で押し切られたわけではないのに、拒否できない。映画に誘われたときと同じだ。志太に頼まれると、どうしてだか嫌と言えない。
黙ったまま同意のうなずきを返すと、志太が嬉しそうに笑った。
ごった返しているロビーを慣れたように進む志太の後を追いながらフードカウンターの列まで辿りつくと、甘い匂いが強くなる。
列に並びながら、なにか会話をしないと不自然な気がして、円はあたりさわりのない話題を選んだ。
「この映画館、よく来るの?」
「うーん、たまにね」
「……デートとか?」
「彼女がいたらね」
ということは、いまはいないということだ。
先ほど志太を見つめていた女の子。
学校でもあんなふうに志太を目で追っているのだろうか。本当は志太と一緒に映画を観たかったんだろうなと思う。
自分の代わりに彼女が志太の隣に座っているのを想像する。まったく違和感がない。むしろお似合いだ。違和感もなくてお似合いなのに、円は志太が彼女と並んでいる姿を見たくないと思った。想像するとなぜか胸が痛くなる。
訊いたのは自分なのに、志太の答えに心がもやつく。
なんのためらいもなく「志太」と呼べる彼女がうらやましい。
うらやましい。そうか、自分は志太の友人たちがうらやましいのか。言葉にしてみると、すとんと納得がいった。
志太の隣にいられる友人たちがうらやましい。円が自分のなかに生まれた感情に戸惑っていると、志太が言い訳をするように言った。
「でも、自分から誘ったのは円がはじめて」
「えっ……」
驚いて顔を上げると志太と目が合った。
本当に背が高い。顔を上げても視線の位置が合わなくて、どうしても上目遣いになってしまう。
「その顔、反則でしょ」
はぁー、と志太が大きくため息をついて続けた。
「円を誘ったときめっちゃ緊張してたんだよ、実は。ダサいっしょ」
そう言いながら片手で口を押さえる。目元が少し赤くなっているのは気のせいだろうか。
いつもの大人びた雰囲気とは違い、照れたような姿は年相応の高校生だ。
「志太もそんな顔するんだ」
「え、俺どんな顔してる?」
「普通の高校生みたい」
「いや、普通の高校生だし。それより、いま俺のこと名前で呼んだ?」
「あ……」
「自分で気づいてなかったの?」
志太がおかしそうに笑う。
名前を呼ぶのは、こんな簡単なことだったのかと少しだけ拍子抜けした。
「で、円はなに食べたい?」
「……志太と一緒でいいよ」
もう一度、名前を呼ぶ。今度はちゃんと意識しながら。
はじめて呼ぶ、友人の名前。
「うわー、円に名前呼ばれるのすっげー嬉しい」
大げさだなと思いながら、志太が喜んでくれるの嬉しくて、なんだかそわそわするような、でも悪くない気分だ。
志太にしてみれば、名前で呼ばれるのはささいなことで、取るに足らない出来事かもしれないけれど、円にとって今日は、名前で呼べる友人ができた日だ。
志太と一緒にいると、落ち着かない気分になる。でもそれ以上に、自分の心がゆるゆると解けていくような、やさしい気持ちになる。
家に閉じこもって父の代わりに脚本を書いていた頃には考えられなかった気持ちだ。
「今日は誘ってくれてありがとう」
円の言葉に、志太が笑顔で答える。
一人で待っていたときの息苦しさはとっくに消えていた。
最後はどうあれ二人には幸せな時間は確かにあって、円はその過去と一緒に生きていくほうが幸せなのかもしれない。
そんなことを思いながら書きました