丞至同棲本
2018年に発行したコピ本の再録です。同棲している丞至のお話です。
四年目の夏風邪
「うーん、七度九分。夏風邪だね」
体温計を見て茅ヶ崎が言った。
「稽古が……」
「そんなん無理に決まってるでしょ。今日は外出禁止」
渡された錠剤の風邪薬を水で流し込むと、ひどく喉が痛かった。頭の中が熱湯でも流し込まれたみたいに熱い。上半身にも力が入らず、ベッドに腰かけるのがやっとだ。これでは真っ直ぐ立つことも難しいだろう。
「なかなか起きてこないからどうしたのかと思ったら……丞でも風邪ひくんだね」
明日は雪かな、なんて言いながら茅ヶ崎はちょっと楽しそうだ。せっかくの週末が俺の看病で潰れるのに、まったく気にしていない。
「すまない」
「気にしないでいいよ。こんなレアイベ滅多に発生しないから」
額に冷却シートを張ってもらいベッドに潜り込むと、急に眠気が襲ってきた。
体調には誰よりも気を使っていると思っていた。昨日の稽古後から喉の調子が悪くなり、寝る前には体も怠くなってきて、朝起きたらこの様だ。
風邪をひいて熱を出すのはいつぶりだろう。役者の仕事を始めてからは一度もないから、たぶん中学生か高校生の時が最後だ。
「予備の薬と食べ物買ってくるついでに寮にも寄ろうかな。監督に、丞が今日の稽古に参加できないこと言っておくよ」
すでに茅ヶ崎の声が遠い。
頭が重くなって意識が泥のように溶けていく。
「おやすみ」
まどろみの中で、幼子をあやすような優しい声がした。
目が覚めてもまだ体は重かった。
起き上がる気力すらない。茅ヶ崎は出かけると言っていたが、まだ帰っていないのだろうか。スマホを探そうにも毛布から手を出すのも億劫で、このままもう一度寝てしまおうと瞼を閉じる。
体の節々が痛くて熱い。
この何もできない無力感を俺は知っている。あれは確か中学生の頃だった。今日のような夏日ではなく、真冬の寒い日。兄が罹った風邪をうつされて、俺も寝込んでしまったことがある。
母が掛けてくれた毛布の柔らかさ。擦ってくれたリンゴの甘酸っぱさ。「大丈夫よ」と頭を撫でてくれた手にすべてを委ねて眠りについた。今まで忘れていた記憶が一気に蘇る。
熱は怖い。昔を思い出して、体が脆くなっていく気がする。
今の俺を見て紬は何と言うだろうか。体調管理は役者の基本だとか言っておきながら、自分が倒れては情けないにも程がある。
稽古だからまだよかったけれど、これが公演中だったら。体調不良で仕事に穴をあける役者はそれこそプロ失格だ。
眠りたいのに頭の奥だけがやけに覚醒して、柄にもなくネガティブになってしまう。
「丞、起きてるの?」
頭をドアの方へやると茅ヶ崎の姿が見えた。抱えた紙袋から青々としたネギがはみ出ている。
「寮に行ったら臣がいてさ、丞が風邪だって言ったらお粥作ってくれた。あと薬とかネギとかいろいろもらってきたんだけど、冬組のネギに対するあの執着マジでなんなの?」
もう一人じゃないと思うとほっとして、今まで渦巻いていた暗い思考もどこかへ消えていく。
「風邪には、ネギだろ」
掠れた声に自分が一番驚いた。声というより乾いた空気が喉から出ただけだ。しかし薬を飲んだ時の痛みはもうない。
「無理に喋んなくていいよ。熱は……まだ下がってないね」
額の冷却シートを張り替えながら茅ヶ崎が言った。
「お粥食べられそう?」
俺が頷くと、
「じゃあ、温めてくる」
無意識だった。
ベッドから離れようとする茅ヶ崎の手首を、何も考えず掴んでいた。半袖から伸びる白く細い腕をぐっと引き寄せる。
行くな、という言葉がこぼれそうになった。
「丞?」
戸惑った茅ヶ崎が俺の手を握り返してくる。
引き留めて、どうしたいのだろう。分からない。ただ、背中を向けられた瞬間、また一人になるのかと思って怖くなった。
もうすぐ三十路を迎える男が風邪ぐらいで弱気になるとは。
「もしかして俺がいなくて寂しかった?」
ふふ、と笑う声がやけに優しい。
答える代わりに目を閉じると、ようやく眠りの気配が遠くからやって来る。
「俺はどこにも行かないよ」
薄い膜の向こう側から茅ヶ崎の声がして、手のひらで二人の体温が混ざり合う。
こんなみっともない姿、お前にしか見せられない。
舞台では王子様みたいだとか言われても、本当はただの普通の男だってこと、茅ヶ崎にだけには知ってほしい。
なんて思うのも、きっと全部熱のせいだ。