俺の初恋が無理ゲーすぎる

2020年に発行した同人誌の再録です。
大学生×高校生パロ。外岡と至が仲良しです。

俺の初恋が無理ゲーすぎる

 大学の敷地内にある演劇ホールに入るとまず客席の多さと天井の高さに驚いた。そして、通路の階段を降りて、自分の席の列まで辿りついてチケットを二度見し、着席して目前に広がる舞台の近さに逃げ出したくなった。
 千景から受け取ったチケットを何度も封筒から取り出しては眺めていたので、座席番号は頭に入っていたけれど、まさかこんなに舞台が近いとは思わなかった。
 前から数えて一列目、二列目……五列目の中央。段差がある客席なので前に座っている観客が舞台を遮ることはない。
 もしかして舞台上の丞と目が合うかも、という自意識過剰かつ邪な妄想は即刻頭から消去した。
 後ろを振り向いてホール内を見渡すと、あきらからに付き添いで連れてこられた男性が数人いるだけで、客席を埋める観客の多くは若い女性だ。
 急に居心地の悪さを感じる。
 今日の公演を迎えるまで丞とは何度か会う機会があった。
 丞はデートの帰りに必ず姉を家の前まで送っているようで、夏期講習を受けている予備校から帰ると家の前に見慣れた車が止まっている。そういうときはだいたい玄関かリビングで丞に会うことになるのだが、毎回舞台を観に行くと伝えようと思うのに、タイミングが悪かったり、勇気がでなかったりで、結局何も言えないまま公演当日になってしまった。
 一度など、キッチンの冷蔵庫から飲み物を取ろうとリビングに入ったら、姉は着信が入ったスマホを手に廊下へ出て行ってしまい、思いがけず丞と二人きりなってしまったのだが、そのとき交わした会話はひどいものだった。
 夏休みの予定や夏期講習の期間、夏バテで体調を崩していないか等々、せっかく丞が気を利かせて会話を盛り上げようとしてくれたのに、至は「あ、その」とか「え、あ」とか、言語能力の最低値を下回る解答しかできなかった。
 まともに会話ができない自分が恥ずかしくて、みっともなくて、いますぐその場から逃げ出したいのに、丞と二人きりになれたのが嬉しくて、氷が溶けて薄くなった炭酸飲料をわざとゆっくり飲んだ。
 丞は至の声が上擦っても笑ったりしないし、うまく話せなくて言葉がつっかえても急かしたりしない。小さく頷いて、「そうか」とそっけない返事が返ってくるだけだ。やっぱり俺の話なんて興味ないよな、と落ち込んでいると、「俺と話してもつまらないよな」と逆に丞から言われてしまい、ぶんぶんと頭を左右に振った。
「き、緊張して…その、姉貴…あ、あの、姉さん以外の人と、あんまり話さないから」
「そうか。俺は愛想がいいほうじゃないから、嫌な気分にさせたらすまなかった」
 嫌な気分どころか人生で一番といってもいいくらい幸せな気分を味わっている。
 なんとか会話を続けようと、夏期講習は夏休みが終わるまで続くことをたどたどしく伝えると、「あまり無理するなよ」と言われ、丞の家で寝込んだときのようにぽんっと頭を撫でられた。
 十八年間生きてきてあの日が人生のハイライトだった。
 予備校で会った外岡には、「本当にヘタれだな」ともう何度目か分からないため息とともに呆れられた。片想いでもいいとふっきれたけれど、だからといって丞の前で緊張しないわけではない。それに、気が緩むと口が悪くなってしまう恐れがあるので、緊張しながら言葉使いに気をつけるという、とんでもく高難度なクエに挑んでいる。 
 至が丞の舞台を観に行くと決めてから、外岡はやけに協力的だ。
 今日来ている服も外岡がコーディネートしてくれた。
 白い無地のシャツの上からペールピンクのボタンシャツを羽織り、ボトムスはホワイトデニムを踝までロールアップしている。「シンプルとダサさは紙一重なんだよ」と何度もダメだしされた結果のスタイルだ。
 家を出る前には「ちゃんとチケット持ったか? 差し入れ忘れんなよ」と協力的というよりもはや母親目線に近いメッセージが届いた。
 そんなに心配しなくてもいいのに、と内心面白くなかったが、差し入れのお菓子が入った紙袋は玄関を出る直前まで部屋に置き忘れていたので、正直外岡には助けられた。
『現地到着。舞台近すぎワロタ』
 外岡にメッセージを送るとすぐに既読になった。
『よかったじゃん。がんばれよ』
 ランスロットが『健闘を祈る』と剣を掲げているスタンプと一緒に返信が返ってきた。
 がんばるってなにをだよ、と心の中で突っ込みながらスタンプを付けずに『りょ』と返した。
 えんじ色の緞帳がおりた舞台は手を伸ばせば届きそうなほど近い。
 開演まで、そわそわした気分を落ち着かせようとスマホをいじっていると、隣の席に誰かが座る気配があった。
「あ、来てくれたんだ」
「えっ」と顔を上げるとフレームレスの丸眼鏡をかけた男と目が合った。
「来ないかと思ってたから嬉しいよ」
 ぽかんと口を開けている至にむかって、千景が独特の笑みを浮かべて言った。
「え、あの、なんで…」
「そんなに驚くことかな?」
「だって、チケットは一枚だけって…」
 言ってましたよね。
 言ってたじゃん。
 言ってただろ。
 いったいどんな反応をすれば正しいのか。白い枠線で囲まれた四角い選択画面が頭の中に出現するほど混乱している。
「あぁ、あれは君たち二人に渡せるチケットは一枚だけってことだよ。俺だってこの公演は楽しみにしてたからね」
 そう言って嬉しそうに舞台のほうへ視線をむけた。
 チケットを渡された際の会話を振り返ると、『取れたのは一枚だけ』という意味にしか聞こえなかった。言葉巧みに騙されたような気持ちがしたが、怒りよりも空恐ろしい心地がしてなにも言い返せない。
 こんな得体の知れない男に勉強を教えてもらっている外岡をとても気の毒だと思った。千景と同じ部屋にいると想像するだけで背筋がぞっとする。
 開演のアナウンスが流れ、客席が暗転し、暗闇に目が慣れる間もなく照明がぱっと舞台を照らした。
 演劇ホールの入口に貼られていたポスターのひときわ目立つ位置に『主演・高遠丞』とあった。主演だから一番はじめに登場するのかと思ったが、まず舞台に現れたのは肩までかかる黒髪をゆるいウェーブに巻いた女性だった。雰囲気が少し至の姉に似ている。
 舞台を観るのは小学校の課外教室以来だ。しかし、そんな至にも彼女の演技がとても上手いことは分かった。時折、はっとするほど細かい演技を見せる。
 女性と数人の役者とのやり取りが続き、物語の掴みが終わったところで、舞台照明がぐっと明るくなった。
 丞が登場した瞬間、思わず立ち上がって拍手しそうになった。
 舞台設定は現代なので、派手なコスチュームではなく、デニムとシャツという普段着と同じようなシンプルな衣装なのに、役者として舞台に上がっているだけでいつもより何倍も魅力的に見える。
 照明の光量か、至の贔屓目か、丞の周りだけエフェクトがかかったようにキラキラと輝いているし、丞の演技から片時も目が離せない。
 舞台のストーリーは丞が演じる主人公を巡る恋愛物語だ。冒頭に登場した黒髪の女性と、彼女の双子の弟が主人公を好きになったことからはじまるラブコメディ。なんだか今の自分と似たような状況で、笑うに笑えないと最初は身構えてしまったが、テンポよく進む物語にあっという間に引き込まれてしまった。
 休憩なしの約一時間、最後のオチもきれいに決まって舞台は幕をおろした。
 拍手が鳴り止まないなか、一度さがった緞帳が再びあがった。舞台上に出演者が一列に並んでいる。もちろん主演の丞は堂々した姿で中央に立っている。出演者を代表して一歩前に出て丁寧にお辞儀をする、その一連の動作さえ完璧で至は思わず「かっこいい」と声に出してしまい、両隣に聞こえないように慌てて両手を口にあてた。 
 最後の挨拶がおわり、緞帳がゆっくりとさがっていく。
 丞が客席に向かって手を振っている姿を目に焼き付けていると、ふと目があったような気がした。と思ったら、隣に座っている女性が「わ、丞と目が合っちゃった」と嬉しそうに呟いたので、どうやら本当に気のせいだったらしい。
 こんなに大勢の観客の中から至を見つけるなんて無理に決まっているし、彼女である姉ならまだしも、丞の視線を独り占めるできるほど自分は特別な人間ではないのだから、自惚れてはいけない。
 終演のアナウンスが流れ、客席のあちこちから興奮気味に語る声が耳に入ってくる。
「現代劇の丞もかっこよかったー」
「いつもと雰囲気違うけどこれはこれで最高」
 予想はしていたが丞には女性ファンが多いようだ。
 聞こえてくる感想も大半が「丞がかっこいい」で、これには至も心の中で激しく同意した。
「あとさ、月岡くんの女装。あまりにも完璧すぎて女として落ち込むレベルじゃない?」
「わかる。弟役を演じてるときと別人みたいだった」
 そして、丞に負けず劣らず人気なのが、黒髪の女性役と双子の弟役の一人二役を演じていた役者のようだった。性別の違う人物を、見た目だけではなく声音や話し方なども演じ分けていて、その演技は途中まで違う役者が演じていると思ったほど秀逸だった。
 至も出口に向かおうと客席から立ち上がると突然隣から腕を掴まれた。
「楽屋、行くよね?」
「え、行きませんけど」
 千景からの予想外の問いかけに、思わず素に近い口調で返答してしまった。
「それ、丞に渡すんじゃないの?」
 至が手に持っている小さな紙袋を指差す。
「今日俺が来るって丞に言ってないんで。スタッフの人に渡すつもりです」
 不思議なことに千景の前だと外岡と話すようにすらすらと言葉が出てくる。緊張していることに変わりないのだが、なぜかつっかえずに話すことができるのだ。
 あまりにびっくりしたからだろうか。ある意味ショック療法に近い。
「会わないで帰るってこと?」
 千景が不満そうに目を眇めた。
「まぁ、そうなりますね」
「つまらないな。ほら、行くよ」
 なにがつまらないのかまったく分からないし、分かりたくもないが、千景は至の腕を引いたままロビーへ出ると、『スタッフ以外立ち入り禁止』の張り紙が貼ってある観音開きの扉を躊躇なく通り抜けた。
「あ、千景さん。来てたんっすね」
 開いた扉の目の前に、緑のパーカーにショルダーバックを肩に掛けている学生が立っていた。扉が急に開いて驚いた顔をしている。
「綴、今回の舞台も面白かったよ」
「あざっす」
「もう帰るの?」
「これからバイトなんで」
 千景と顔見知りらしい学生は、至に対して軽くお辞儀をすると、急ぎ足で扉から出て行った。
 混乱するまま、千景と一緒に廊下に並ぶ控え室の一室に入ると、そこには先ほど舞台を終えたばかりの出演者やその関係者がそろっていた。
「丞、お客さんだよ」
 千景が声をかけると、こちらに背を向けて役者仲間と話していた丞が振り返った。
 至と目が合った瞬間、丞がなにか言いかけたが、声が届かないと思ったのか話の輪から抜けて入口付近まで来てくれた。
 舞台衣装は身に着けたままだ。
 普段着に近い衣装とは言っても、いつもと違う雰囲気にドキドキする。
「やっぱり来てたんだな」
 丞の言葉の意味が分からず戸惑っていると、
「舞台からお前の顔が見えて驚いた」
 と言われて目を丸くした。
「見えてたの?」
 つまり目が合ったのは気のせいではなかったということだ。あの視線が不特定多数の観客ではなく、自分に向けられたものだと分かって、嬉しさのゲージが一気にマックスになる。
「最後のカーテンコールのときにな。舞台から客席は意外によく見えるんだ。来るなら言ってくれればよかったのに」
 丞が少しふて腐れたように言った。
 無断で観に来たことをきちんと謝ろうと思ったが、
「俺が誘ったんだよ」
 至が謝る前に、千景がマジックの種明かしをする手品師のように言った。
「卯木が? お前たち知り合いなのか?」
 丞が胡乱げに尋ねた。
「家庭教師をしてる生徒と茅ヶ崎くんが友人でね。丞と知り合いだって言うからチケットを譲ったんだ。確かめたいこともあったしね」
「確かめたいこと?」
 この後に及んでまだなにか企んでいるのか、と千景に詰め寄りそうになったが、憤りは心の中だけに留めておいた。
 口に出す勇気はないし、丞の前で本性を晒すわけにはいかない。
「千景さん、観に来てたんですね」
 訝しげな顔をしている丞の後ろから、黒髪の女性を演じていた役者が声をかけてきた。
「紬、相変わらずいい芝居だったよ」
「ありがとうございます。今日は友人の方と一緒だったんですね」
「友人というか、ちょっとね」
 意味ありげな視線を至に寄こしてきたので、「いや、友人じゃないです」と鋭く否定した。
 千景は外岡の家庭教師であり、至にとってはまだ知り合い未満の人間だ。
「ひどいなぁ。せっかく仲良くなれたと思ったのに」
「チケットについては感謝してます」
 丞ともこれぐらい気安く会話ができればどんなにいいだろう。
 せっかく楽屋に入れてもらったのに、自分から話しかけることもできなければ、「丞の芝居、すごくよかったよ」、という簡単な感想さえ喉に突っかかって出てこない。いったいなんのためにこの場所にいるのだろうかと自分が情けなくなってくる。
「千景さんが友人を連れてくるなんて意外だな」
「俺にだって友だちの一人二人くらいはいるよ。ちなみに、彼は丞の知り合いでもあるんだよ」
「え、そうなんですか」
「つむ、そいつは茅ヶ崎の弟だ」
 むすっとした顔で黙っていた丞が至のほうを見て言った。
「あっ、言われてみれば……お姉さんにそっくりだね」
「……よく、言われます」
 失礼のないようになんとか会話を繋いだが、動揺して語尾が掠れたのは自分でも分かった。
「お芝居の参考にしたいくらい似てるよ。丞もそう思わない?」
 なんて質問をしてくれるんだと詰りたくなる。
 今まで散々コミュ障っぷりをさらしてきたのだ。
 自分の彼女にこんな暗くて陰気な弟がいるなんてさぞ不快だろう。丞の反応は簡単に予想できた。
「姉は姉、茅ヶ崎は茅ヶ崎だろ」
 思わず丞の顔をまじまじと見返してしまった。
 まっすぐ至を見つめる丞の真摯な眼差しにぶつかって、顔がかっと熱くなる。
 これは、かなり強烈な一撃だ。もちろんいい意味で。
 姉も至も、母親ゆずりの整った顔立ちをしているので、幼いころから見た目だけはよく似ていると言われた。似ていることに特に不満はなかったが、幼稚園では女っぽくて気持ち悪いと男子にからかわれ、元々外交的でない性格がねじ曲がって陰気になり、お節介な親戚から「お姉さんに似てるのは顔だけね」と言われるようになって自分の外見にほとほと嫌気がさしてしまった。
 眼鏡をかけているのは少しでもこの顔を目立たせたくないからだ。それでも、顔の造形までは変えられない。姉を知っている人は二人をよく似た姉弟だと言い、至の性格を知ると勝手に残念がる。もう数えきれないほどそういう経験をしてきた。
 しかし、丞は今までの誰とも違う言葉をくれた。
 嬉しくて、ふいに丞に恋した瞬間を思い出す。
 あのときも丞の視線はまっすぐ至へ伸びていた。
 そして、今日の舞台でも。
 丞のこの迷いのない眼差しが好きだな、と改めて実感して、舞台を観に来てよかったと心の底から思った。
「それより卯木、確かめたいことってなんだ?」
 丞が先ほどの質問を千景に投げかけた。
 至もいったいなにを確かめたいのか知りたかったので、千景の顔をうかがうと、
「あぁ、それなんだけど、丞っていつから彼女できたの?」
 なんだその質問は、と千景をグーパンで殴りそうになった。 
外岡の部屋で同じような質問をされたとき、丞は至の姉と付き合っていると言ったはずだ。
 なぜ本人に確認する必要があるのだろう。
 千景は至の気持ちを知っている。知っているのにそんな質問を丞にするなんて鬼畜にも程がある。
 傷口に塩を塗られただけでなく唐辛子まですり込まれたような気分だ。 
「彼女? いったいなんの話だ?」
「え、たぁちゃん彼女いるの? いつから?」
「だから彼女なんていないって言ってるだろ」
 丞が不機嫌そうに眉を寄せながら言った。
「だってさ、茅ヶ崎くん」
 千景に名前を呼ばれてようやく正気を取り戻した。
 丞に彼女がいない?
 そんなはずはない。
 冷房が効きすぎて鳥肌がたつほど冷えたリビングで、姉と丞が並んで座っているのを見た。そして、至は姉から丞を紹介され、ひと目で恋に落ち、一瞬で失恋した、と思っていたのだが……。
 あれ、そう言えば付き合ってるって言ってたっけ?
 丞とはじめて会ったとき、姉はなんと言っていただろう?
 恋に落ちた衝撃でまったく憶えていない。姉が連れてくる異性はみんな恋人だという認識でいたけれど、もしかして、今回ばかりは至の思い込みだったのだろうか?
「茅ヶ崎?」
 丞が訝しげな表情を浮かべている。
 眉の形がきれいだ、なんて全然検討違いのことを思ってしまう。
「え、ね、姉さんと付き合ってるんじゃないの?」
「お前の姉と? まさか。俺はただ……」
 丞はほんの一瞬言いよどむと合点がいったというふうに千景を睨んだ。
「卯木、お前ぜんぶ分かってて茅ヶ崎を連れてきたんだろ」
「俺はチケットを渡しただけで、来るか来ないかは彼が決めたことだよ」
「同じことだろ」
「心外だな。言っておくけど茅ヶ崎くんと知り合ったのは本当に偶然だよ」
 丞と千景が言い合っているなか、至は至で混乱していて、丞が姉と付き合っていないなら、今まで悩んだことはなんだったのだろうと泣きたくなってくる。
 姉に訊けば誤解は解けたのだろうが、直接尋ねる勇気はないし、あんなふうに紹介されて彼氏じゃないと思わないほうがおかしい。
「茅ヶ崎、ちょっといいか」
 丞に促されて部屋の外に出ると、廊下は楽屋の喧噪が嘘のようにひっそりと静かだった。
「勘違いさせたみたいで悪かったな」
「た、丞が謝ることじゃないって」
 急に二人きりになったせいで、ドキドキして心臓が痛いくらい鳴っている。
「卯木になにを言われたか知らないが、お前の姉を紹介したのは他でもない卯木だ」
「えっ?」
 これはまったく予想していなかった展開だ。
 千景と姉が知り合いだったとは。姉が彼氏として連れてくる男とはタイプが違うし、いったいどこで出会ったのか検討もつかない。きっとあまり詮索しないほうがいいのだろう。
「元彼に付きまとわれて困ってるから助けてほしいってな。だからボディーガードとして送り迎えする代わりに、恋人役の練習相手になってもらったんだ」
「恋人役って……」
「今回の舞台はラブコメディだっただろ。相手役の紬は男だし、できれば異性からのアドバイスがほしかった。ちょうどがよかったんだ」
「役のために付き合ったってこと?」
「恋人らしいことは一切してないぞ。車で送り迎えしたぐらいだな。女装する紬の稽古にも付き合ってもらってたから、デートに行く時間もとれなかった」
 女性を演じていたときの紬がどこか姉を思わせたのは一緒に稽古していたからなのか。そういえば強気な話し方やまっすぐ背筋を伸ばして自信満々に歩く姿は姉によく似ていた。
「もしかして、あのとき、俺と姉さんを間違えてた?」
 ずっと気になっていて、訊けなかったことだった。
 役が入り込むと言っていたけれど、丞の頭の中には姉がいて、その姉をイメージしながら自分を看病したのだとしたら。
 胸の奥がぎゅっと絞られるように痛い。
「あのときって……あぁ、電車で助けたときか。いや、最初から茅ヶ崎だと思ってたぞ。いくらなんでも間違えない。顔だって、男と女なんだから、そんなに似てないだろ」
 男と女。その大雑把な分け方とストレートな物言いがとても新鮮で、丞らしいと思った。
「……本当に付き合ってないの?」
 半分くらい夢を見ているような気分で尋ねた。
「俺みたいなのはタイプじゃないらしい」
 肩をすくめて笑う丞は嘘をついているようには見えない。
 まさかの展開に膝から崩れ落ちそうになる。ゲームでラスボスをクリアしたとき以上の脱力感だ。
 丞には恋人がいない。
 姉と付き合ってもいない。
 自分が丞と付き合える可能性はゼロどころかマイナスだから、丞に恋人がいないからといって浮かれたりはしないが、姉の彼氏に恋をしているという罪悪感はすっかり消えた。 
 それだけで心が軽くなるには十分で、ようやく恋愛のスタート地点に立てた気がした。
 ただ、スタート地点に立っても片想いが終わるわけではないので、どうやって走り出せばいいのか分からないのだけれど。
「姉貴の男の趣味は最悪だから。丞の良さを分からないなんて損してる」
 至が語気を強めて言うと丞が大きく目を見開いた。
「えっ、俺なんか変なこと言った?」
「いや、少しびっくりしただけだ。そんなふうに思ってくれてたとは……」
「電車で俺のこと助けてくれたじゃん。優しい人だなってずっと思ってた。それにさっきだって姉貴と俺を比べたりしなかったし」
 ふっと丞が笑ったので、至はまたなにか変なことを言ったのかと不安になった。
「ごめん、俺、また……」
「いや、違う。ようやくちゃんと話せたと思ってな」
 楽屋では緊張してうまく話せなかった。二人でいる今も緊張していないわけではないが、丞に彼女がいないことを知って気が抜けたのか、素に近い言葉使いになってしまっている。 
汚い言葉を使うのは避けて、オタクっぽい言動にも注意しなければいけない。
「それは、丞と話すと緊張するっていうか……」
「威圧感があるとはよく言われるな」
 丞が眉を顰めたのでこれはまずいと咄嗟に反応したのが間違いだった。
「違うって。緊張するのは丞のことが好きだから―」
 しまったと思ったけれど至の言葉はすでに吐き出されたあとだった。
 丞の表情がみるみる曇っていく。
 最悪だ。告白なんてするつもりなかったのに。
「ごめん」
 いったいなにに謝っているのか自分でも分からなかった。
 告白してごめん。
 好きになってごめん。
 根暗で、コミュ障で、オタクでごめん。
 くるりと後ろを向いて走り出す。
 一秒たりともこの場所にはいられない。
 ようやく恋愛のスタート地点に立てたのに猛ダッシュをきめて転倒した。運動音痴の自分にお似合いの大失態だ。
 どうか現実では転けませんように。これから一年間、ガチャの引きが悪くなっても、ナイランの新作発表が遅れても、好きなアニメの二期が発表されなくてもいいから、とにかく転けませんように。
 必死に祈りながらロビーへ飛び出した。

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