LOVE YOU NEIGHBOR

2019年に発行した同人誌の再録です。
役者×会社員パロ。


 週明けに急な出張が入り、出張から戻ったら戻ったで滞留していたデスクワークをひたすらこなし、気がついたら週末を迎えていた。
 会社と自宅の距離が近くなっても業務量は変わらない。家が近くなり、残業への抵抗感が薄れたせいか「あともうちょっとやってから帰ろう」と追い込むように仕事をしている気がする。
ゲームならセーブポイントまでたどり着けばひと休みできる。でも、仕事は明日も明後日も途切れることなくやってきて至を休ませてくれない。
 合コンを総務部の女性社員と中座したことは特に噂になっていないようだ。自分の知らないところで話題になっているのかもしれないが、そんなことまで気にしていられない。
 なんとか定時で仕事を終わらせて帰宅すると、ネクタイをほどきスーツジャケットを床に脱ぎ捨ててソファーベッドへダイブした。
「あぁ、もう一歩も動きたくない」
 枕に顔を押しつけて唸る。
 こうやってベッドに寝転んでだらだらとソシャゲを走っている時間が一番幸せだ。できるなら一歩も外へ出ないで生きていきたいと思うぐらいにはインドア派、というより引きこもりなので、土日の過ごし方は毎週決まってゲーム三昧だ。
 ベッドに寝そべりながら部屋の反対側の白い壁に目を向ける。どうやら隣人も部屋にいるらしい。
 聞き慣れたお経のような独り言。毎日飽きもせずぶつぶつとなにを言っているんだろう。しかも、今日は他の人間の声も聞こえる。
 隣人の男よりいくらか聞き取りやすい声だ。
耳を澄ませばなにを言っているかわかるかもしれない。
「ねえ、なんで―って言うの―じゃん」
「―だろ」
 語尾がようやく捉えられる程度だが、なんとなく男女が口喧嘩をしているような感じがする。 
 薄闇の中で見た男の横顔を思い出す。短く刈り上がった襟足がやけに印象的で、なにかスポーツでもやっていそうな雰囲気だった。
学生時代によくいた、部活に夢中で異性にまったく興味がないタイプ。なのに一部からやけに人気があって、告白されても部活を理由に断る。そして、その硬派な性格がさらに魅力となって隠れファンが増えていく。そんなタイプ。
女と付き合う姿をまるで想像できない。
 週末に彼女を連れ込むなんてこのリア充め、と白い壁をじっとりと睨む。
 男女が同じ部屋にいればこの後の展開は決まっている。そんな猥雑な音を盗み聞きするほど野暮ではないので、床に放った鞄からイヤホンを取り出し、スマホに差し込んだところで、パンと乾いた音が隣から響いた。
 反射的に身体がびくりとなる。手から滑り落ちたスマホが床に落ちて鈍い音をたてる。
 つかの間の静寂のあと、壁に裂け目ができるのではと思うくらい大きな怒鳴り声が聞こえた。
「殴ることないでしょ!」
「うるさい! なんで俺の言うことが聞けねえんだ」
「聞いてるじゃん! アンタの言うとおりにブツだって運んでこうやってちゃんと金だって持ってきた」
「そういうことを言ってるんじゃねえ」
 殴るとかブツとか金とか、不穏な単語の応酬にぞっとした。もしかしなくとも隣に住んでる奴はとんでもなくヤバい奴なのではないだろうか。
 ここは駅前の繁華街から徒歩圏内の住宅地だ。立地だけが売りのバカみたいに値の張るマンションが乱立し、その隙間を埋めるように低層のアパートがひしめきあっている。物件を紹介してくれた不動産屋もあまり治安がよくないと言っていた。
「隣の部屋で殺人とかマジでやめてよ」
 会話から察するにただの男女の痴話喧嘩ではない。しかも、怒鳴り合っている様子からしてお互い感情的になっているのは明らかで、このままでは本当に刺し違えそうな勢いだ。
 仲裁に入ったほうがいいのだろうか。
 しかし、至はただの平凡なサラリーマンだ。護身術は格闘ゲームで習っただけ。実践で使ったことなど一度もない。体力もないし、青い血管が浮いた細い腕であの巨体を押さえ込むなんて無理ゲーすぎる。
 至が悩んでいる間にも壁の向こうでは言い争いが烈しくなっていく。
「そんなに文句があるんだったらアンタがこの部屋を出ていきなさいよ。毎日毎日、仕事もしないで朝から晩まで遊び歩いて、誰が家賃払ってると思ってんのよ」
「うるせえ!」
 おそらく殴られて床に倒れたのだろう。ドンと重い音がして、いよいよ至は居ても立ってもいられなくなった。
 さすがにこのまま黙って見過ごすことはできない。
 普段は引きこもってばかりで他人と関わるのを極力避けているけれど、誰かが傷ついているのを放っておくほど薄情ではない。
 どうしたらいいか思案する。散らかった部屋をぐるりと見渡しても武器になるようなものはない。空のペットボトル、読みかけのゲーム雑誌、漫画、宅配ピザの空箱……。
 悩んでいる時間はない。どうにでもなれ、と部屋着のスカジャンを羽織って玄関から飛び出し、隣の部屋のインターフォンを押した。
 押した瞬間、後悔した。
 なに勇者気取りで助けようとしてんだよ。
 俺ってこんなキャラじゃないだろ。
 これ絶対関わっちゃいけないやつだし、いますぐ戻って……いや、そしたらただのピンポンダッシュで余計にまずい。
 どうしよう、どうしよう。
 足が震えてきた。
 自分の家に引き返そう。
 いまならまだ間に合う。
「はい、どなたですか?」
 ドアの向こうから訝しげに問われ、
「えっと、ピ、ピザ屋です」
 上擦った声で応えた。
 ピザ屋の空箱を両手で掴むと手のひらにじわりと汗が滲む。先週、マルゲリータを食べたときには、まさかこの箱をこんなことに使うなんて予想もしていなかった。
 永遠にも思われるような沈黙のあとガチャリとドアが開いた。
「あの、ピザなんて頼んでないって……」
 てっきり髪をぼさぼさに振り乱した派手な女が出てくると思っていた。しかし、部屋から出てきたのは至と背格好が同じくらいの男だった。はっとするぐらい綺麗な顔をしているから一瞬女かと思ったが、七分袖のシャツから除く腕が男の骨格だ。
 相手はスカジャンを着てピザ屋の箱を両手に持ちながら突っ立ている至をぽかんと見つめ、同じく至もあっけにとられて彼を見返す。
 つまり、隣室で繰り広げられていたのは男と男の痴話喧嘩だったらしい。でも、危ない目にあっていることは確かなのだから、性別など関係なく彼を助けるべきだ、と咄嗟に判断して相手の腕を掴む。
 ゲームでは一瞬の判断ミスが死に繋がる。
「とにかくここから逃げましょう」
 至よりも細い手首を掴み、薄暗い廊下を階段へ向かって走り出す。
 つもりだった。
 勢いよく走り出したせいか、もしくは至の運動神経が悪いせいか、たぶんその両方だろう。
 踏み出した左足に右足が絡まって上半身が前につんのめってしまった。学生時代から履いているサンダルの靴底はすり減ってすべりやすい。体幹などいままでの人生で鍛えたことがないから、きっとこのまま顔面強打、来週は絆創膏だらけになって出社するだろう―。
 名誉の負傷みたいでちょっとかっこいいかも、と思いつつやがて来る衝撃に備えてぎゅっときつく目を閉じた。
「おい、危ないだろ。なにやってんだ」
 聞き慣れた低音の声だ。
 壁越しではなく直接耳にするその声は、暴力男に似合わずとても暖かみがあった。よく響くテノールだ。
 バランスを崩した身体を片手でがっしりと抱き留められる。肩に食い込む大きな手。自分の貧弱さが恥ずかしくなるくらい健康的で厚みのある胸板。
「つむ、こいつ知り合いか?」
「えっ? 違うよ。たーちゃんの知り合いじゃないの?」
 つむ、たーちゃん、と親しげに呼び合う二人に先ほどまでの険悪さは微塵も感じられない。
 あれ、なんか俺、すごい馬鹿な勘違いをしていたんじゃないだろうか。
 転びそうになったせいで心臓がまだドキドキしている。
 大きく深呼吸して自分を抱き抱えている男の顔を見上げると、相手は苦虫を噛みつぶしたような、異星人と出会って戸惑っているような、なんとも言えない表情をしていた。



「茅ヶ崎至です」
「高遠丞だ」
「ええと、月岡紬です」
 廊下で話すのも近所迷惑なので、部屋に入ってローテーブルを三人で囲んだはいいものの、なにから話していいのかわからずとりあえず名前を言い合った。まるで合コンのようだが、ここは小綺麗なレストランではなく高遠丞の部屋で、参加者は全員男だ。
 隣人は至と違ってあまり物を買い込むタイプではないらしい。部屋はシングルベッドとローテーブル、金属製のラック以外に目立った家具はなく、散らかり放題で足の踏み場もない自分の部屋より広く感じる。
「で、なんでいきなりうちに押しかけてきたんだ?」
 腕を組んだ男が不機嫌さを隠そうともせず至を問い詰める。じろりと睨んでくる顔に先ほどの怒声が重なって、背筋がひやりとした。
 やっぱりその筋の人間なんじゃないだろうか。
「隣で殺人が起きるのはちょっとまずいと思って……」
 なぜ宅配ピザ屋を装ってインターフォンを押し、紬の手を掴んで逃げようとしたのか。至がぼそぼそと拙い説明をすると、二人は呆気にとられていたが、しばらくすると合点がいったというふうに顔を見合わせた。
「なるほどな」
「これは、完全に俺たちが悪いね」
 紬が申し訳なさそうな顔で言い、至に事情を説明してくれた。
「俺たちはMANKAIカンパニーっていう劇団に所属してる舞台役者なんだ。今度の公演の脚本を読み合わせしているうちに白熱しちゃって……」
「月岡さんの叫び声、白熱ってレベルじゃなかったよ?」
「さん付けってなんかよそよそしいから紬でいいよ。あ、俺も至くんって呼んでいい?」
「え、ああ別にそれは構わないけど……」
 むすっと黙る男の横で紬はどこかこの状況を楽しんでいるように見える。
 なんだか調子が狂ってしまう。
「俺たち、昔から演技のスイッチが入ると周りが見えなくなっちゃうんだよね。特に丞は役に没入する癖があるし……」
「おい、それはお前もだろ」
「今日のたーちゃんはいつもより深く入り込みすぎだったよ。まさか本当に叩かれると思わなかった」
「たーちゃんって言うな。それに叩いたって言っても手で軽く触って台本で音を立てただけだろ」
「あの……」
「ト書きには肩を軽く小突くって書いてあったよね」
「ああ。でもあの場合は平手打ちのほうがリアルな気がする。男は堅気じゃないしあれぐらいの暴力は日常茶飯事だろ」
「ええと……」
 至の存在を完全に無視して会話が進んでいく。
「確かに。明日綴くんに提案しよう。あとさ―」
「つまり全部演技だったってこと?」
 延々と続きそうな議論を止めたくて腹に力を入れて声を出すと自分でもびっくりするぐらい大声になった。
「そうなるね……驚かしてごめん」
 勝手に勘違いして、ヒーロー気取りで乱入した自分が恥ずかしくてたまらない。
 しかもすべって転びそうになるなんて、格好がつかなさすぎて噴飯物だ。会社の女性社員が見たら至のイメージダウンは必至だろう。
 でも、物騒なことが起きているわけではなくてほっとした。
 男とはいえ、できることなら危ない目には遭いたくないし、こうやって不本意ながらも隣人がまともな人間だと知れただけで安心だ。 
「紬、お前が謝る必要なんてないぞ。おい、この際だから言っておくことがある」 
 至が安堵したのもつかの間、冷ややかな声を投げつけられた。紬を相手にしているときとは明らかに違うその声音に思わず身構えてしまう。
「お前、もう少し静かに生活できないのか?」
 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。
 静かに、ってそれはこっちの台詞なんですけど。
「ガタガタうるさくてゆっくり眠れやしない。電話だかなんだか知らないがもう少し声をおとして話せないのか? あと夜中に叫ぶのはやめてくれ」
「なっ……」
 びっくりして口が開いたままなにも言い返せない。
 実況を録画するときはマスクをしているからそんなに声は響かないだろうと思っていた。
 夜中に叫ぶのは……仕方ないだろう、だってどうしても欲しかったSSRが単発ガチャで引けたら雄叫びを上げたくなるのがオタクの習性だ。
「そ、それなら俺だって言わせてほしい。そっちだって毎日毎日ぶつぶつうるさくて気味が悪いし、朝早い時間に起きて物音をたてるせいでずっと寝不足なんだよ」
「家で台本を読むのも朝のランニングで身体を鍛えるのも役者の仕事だ。お前はただ生活が雑なだけだろ」
 まるで自分はなにも悪くないと開き直った言い方だ。
「なんで初対面の相手にディスられなきゃいけないのか意味がわからない」
「それはお前うるさくて俺が迷惑してるからだ」
「だからそれは俺もだって」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
 間に挟まれて座っている紬が困り顔で仲裁に入る。
 人の話を聞かない男になにを言っても仕方がないだろう。
 隣人をまともな人間だと思った自分が甘かった。
こんな嫌な奴とはもう話したくもない。
 無言で立ち上がり玄関に向かう。
 玄関のドアを開ける直前、紬が至を引き留める声が背中に聞こえた。さすがになにも言わずに立ち去るのは失礼かな、と一瞬だけ思い返したが、男の「放っておけ」という言葉でさらに怒りがこみ上げてきて、わざと大きな音をたててドアを閉めた。
 自宅までは徒歩五秒だ。
 住み慣れた自室に入っても隣にあんな性格の悪い人間が住んでいると思うだけで心が落ち着かない。
 なんて失礼な男なんだろう。
 今日はじめて会ったばかりなのに。
 隣からは二人がぼそぼそと会話をする声が聞こえる。
 風呂も食事もどうでもよくなって、至は掛け布団を頭まで被って目を閉じた。
 連日の激務で酷使された身体は眠りに無防備で、うとうとしながら、ピザの空箱を隣の家に置き忘れてきたことに気づいた。
 最後まで格好がつかない自分が情けなかった。

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