LOVE YOU NEIGHBOR
2019年に発行した同人誌の再録です。
役者×会社員パロ。
屋根付きのフットサルコートに入ると、すでにユニフォームに着替えた臣と丞の姿が見えた。他にも数名、二人と同じ色のビブスを着ているからおそらく同じチームのメンバーだろう。
「あ、至さん、来てくれたんですね」
至に気づいた臣が笑顔で片手を上げる。その後ろで、丞が一瞬だけ至のほうを向いて、またそっぽを向いてしまった。
目が合ったのに挨拶もなしかよ。
「まあ、今日休みだしね」
「幸もありがとな」
「別に。俺もヒマだから来ただけ」
引っ越し祝いをした日の夜、臣が帰り際になにか言いかけてたのが気になってLIMEを送ったら、所属するフットサルチームの試合を観に来てほしいと返信があった。
至はスポーツ全般に興味がない。
サッカーも野球も、ゲームでプレイしたことがあるから辛うじてルールが分かる程度だ。フットサルとサッカーの違いは人数ぐらいという認識しかない。
臣の誘いとはいえ、せっかくの休日を興味のないスポーツの試合観戦に費やすのは嫌だ。
ところが、気が向いたら行く、と愛想のないメッセージを送ったあとに、臣のチームということは丞も試合に出るのではという考えに至った。
会社の愚痴やゲームのことなどなんでも話す至と違い、丞は自分自身についてあまり話してくれない。秘密主義かというとそうでもなく、訊いたら教えてくれるので、会社での至のように猫を被っているとか、本心を隠しているというより、そもそも自分の話をすることに無関心なのだろう。
現に臣から聞かされるまで、丞がフットサルチームに入っていることすら知らなかった。
丞がフットサルをしている姿を観てみたい。
もっと丞のことを知りたい。
アパートの前でいきなり不機嫌になった理由はわからないが、このままなにもしないで丞と疎遠になるのは嫌だ。
舞台の上で演技をする丞を観たいと思うことは何度もあったが、観劇している間はソシャゲにログインできないし、何時間もじっと座っている苦痛を思い出すと、どうしても劇場まで足を運ぶ気になれなかった。けれど、フットサルの試合ならいつでもスマホをいじれるし、狭い座席に拘束されることもない。
丞になんで来たんだと言われても、臣に誘われたと言えばいい。こちらはなにも悪いことをしていないのだから変に萎縮する必要なんてない。
ただ、ひとりで行くのはちょっと気まずいから幸に同行してもらう。夏のボーナスが飛んでしまうが仕方がない。
そして今日、「ほしいワンピがあったからラッキー」と上機嫌な幸と一緒に電車を乗り継いで、至は生まれてはじめてフットサルコートを訪れた。
わかってはいたけれど、いざ丞の顔を見るとやはり緊張してしまう。目が合っても逸らされてしまうぐらいだから、丞はまだ怒っているのだろう。
臣が至たちを試合観戦できるコートの端に案内している間も、丞はこちらを見ようともせず、チーム仲間とストレッチを続けていた。
あの日からLIMEのやり取りどころか、顔も合わせていない。隣の部屋から足音や話し声が聞こえないから、どうやらずっと寮に泊まっているらしい。そこまでして俺に会いたくないのか、とそこそこ落ち込んで、お陰で仕事中にいくつかミスをしてしまった。
いつも完璧な茅ヶ崎がめずらしいなと同僚も嫌味混じりに驚いていたし、至自身、丞の存在が自分のなかでいつの間にか大きな存在になっていることにびっくりした。
人工芝のフットサルコートは全部で二面あり、片側ではすでに試合がはじまっていた。男女の声援がこちらまで聞こえてくる。
コートの端に見学者用のベンチがいくつか並んでいて、ちょうど空調の真下なのか、冷たい風が肩にかかった。
「寒い」
今日は午後から気温が上がるらしいので白い半袖シャツとくるぶし丈のチノパンにスニーカーという格好だ。
「ジャケット持ってきてないの?」
「それが見つからなかったんだよね」
「これ着とけば取りあえず見た目はごまかせるから」と姉に勧められて購入したサマージャケットだ。
至のスーツ以外の衣服のレパートリーは限られている。
シャツかジャケットを羽織ればダサい格好にはならないと気づいてから、柄や素材が違う同じようなシルエットの服を買って着回している。
「じゃあ、至さんこれ着てください。そろそろ試合始まるから脱いじゃうので」
臣から渡されたグレーのパーカーが冷風を遮ってくれて、これなら集中して試合観戦に臨めそうだった。
「ありがと」
「いえいえ。試合が終わったらチームメンバーを紹介しますね。みんな丞さんと同じ劇団の団員ですよ」
「へえ」
コート内でボールを蹴り合っているメンバーは臣と同年代のように見える。丞はともかく、学生なのに劇団に所属しるのかと思うと、そのバイタリティに感心する。
「オカンはなんでこのチームに入ったの?」
「綴……あの茶髪のメンバーに誘われたんだ。綴は大学の後輩で、試合の助っ人に来てほしいって言われたのがきっかけだな」
「お人好し。それでチームに入っちゃったの?」
幸が呆れたように言った。
「はは、まあな。でもみんな面白いやつで楽しいぞ」
臣は背も高いし運動神経もいい。それに人当たりもいいとくれば、彼をメンバーに誘わない手はないだろう。
綴とかいう劇団員は人を見る目がある。
他のメンバーはどんなやつだろうとコートにもう一度視線を向けると、丞がその綴と笑いながらパス回しの練習をしていて、不覚にも目が離せなくなった。
高校の頃、好きな男子のサッカーや野球の試合に応援に行きたいと騒いでいた女子の気持ちがわかる。
コートに漂う独特の緊張感とユニフォーム姿が妙にマッチしていつもの三割増しくらいで格好よく見えるのだ。スポーツ選手がモテるのもうなずける。
三人で話しているとコートから臣を呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあ、楽しんでくださいね」
爽やかに駆け出す臣の後ろ姿は、まるで青春映画のワンシーンのようだ。
あれで自分がモテてる自覚がないのだから恐ろしい。
ホイッスルが鳴って試合がはじまった。
相手チームの応援に来ているのは大半が女子だ。ビブスの背の部分に臣の通っている大学の名前がローマ字で書かれている。おそらく大学のフットサルサークルだろう。応援しているのは彼らの彼女か女友達に違いない。
「ねえ、」
試合がはじまって暫くして、幸がこそこそと耳打ちしてきた。
「うん、俺も思った」
「臣のチームメンバー全員イケメンじゃない? 特にあのワンレン。モデルかよってぐらい顔がいいじゃん」
丞も負けてませんけど? という言葉はぐっと我慢する。 幸の言うとおり、相手チームの学生と比べると五人とも見た目もプレーも秀でていた。
そのうち片側のコートの試合が終わり、一部のギャラリーがこちらに流れてきた。観客からは「臣くーん、がんばって」だとか「高遠さん、ナイスプレー」だとかいう声が聞こえてきて、固定ファンがいることがうかがえる。
誰に声援を送ろうが勝手だが、至はなんだか面白くない気持ちになってしまい、試合に集中できなかった。
*
ハーフタイムを終えて得点は一対一の同点だった。仲間内の気軽な試合かと思いきや両チームとも本気でプレーしているようだ。
フットサルは展開がはやい。
ボールをキープする時間に制限時間があるらしく、どんどんパスが回るし、攻守の流れが頻繁に変わるので観ていて飽きない。
「あのワンレン、やっぱりうまいね。黒髪のやつも瞬発力があるし、茶髪のたれ目はパス回しが丁寧。しかもゴールキーパーの臣の存在感は圧倒的。良いチームじゃん」
フットサルではなく至のボーナス目当てに着いてきた幸だが、どうやらけっこう楽しんでいるようだ。
「丞のことも褒めてよ」
「ああ、至のお隣さん? アンタがずっと目で追ってるんだから俺が褒めなくても別にいいでしょ」
「そうだけどさ、やっぱり第三者からの評価がほしいっていうか。丞、やっぱりかっこいいよね?」
「もう少し筋肉おとせば似合う服がたくさんありそう」
それは褒めてるとは言えない。
「あ、丞がボール持った。足はやっ」
声援がひときわ大きくなった。
至も思わずぎゅっと両手を握ってしまう。
観劇と違って試合を観ながらソシャゲができると思っていた自分を殴りたい。現実の推しが目の前でファインプレーを決めているのに、それを見逃すなんてオタク失格だ。ソシャゲのランキング争いからは外れるが、もれなく丞の雄姿を心のフォルダにダウンロードできるのでこれは実質タダだ。
丞が相手チームの守りを突破し、ゴールはもう目の前だ。後ろからボールを奪おうと二人の選手が迫るが、丞に追いつくことはできない。
ドリブルしながら丞が片足を振りかぶって思い切りボールを蹴る。すると、なにかに導かれるようにボールはまっすぐゴールネットへ吸い込まれていった。その瞬間はまるでスローモーションだった。
「入った! 幸、入ったよ!」
「はいはい。俺じゃなくてあっちに叫びなよ」
「え、ああ。確かに。丞、ナイスシュート!」
丞のシュートに興奮して忘れていたが、自分たちはいま冷戦中なのだ。こんな声援を送っても迷惑かもしれない。一瞬、他の観客の声にかき消されてしまうことを望んだが、夢中で叫んだエールは相手に届いたらしく、仲間にもみくちゃにされている丞がこちらを向いた。
目が合って、息が止まった。
―ありがとな。
どこか照れた顔で丞が呟いた。
声は聞こえなかった。口の動きだけ。それでも、至は丞がなにを言ったのかわかった。
やばい。
これは、やばい。
心拍数が一気にあがって、顔が熱くなる。
「幸、どうしよう……」
両手で顔を覆いながら俯く。もう丞の顔をまともに見ることができない。
「は? なに、どうしたの?」
「俺、丞のことが好きだ」
自分はきっと人を好きにはならない。
そうやって他人と一線を引いて付き合ってきた。誰もが夢中になる恋も、美しい風景画を遠くから眺めるように、非現実的で手応えのない感情だと思っていた。だから、友情と恋の境目はどこだろう、なんて呑気なことが言えたのだ。
こんな激しい感情を至は知らない。
ただひとりに見つめられることがこんなにも嬉しいなんて知らなかった。
いま、ずっと曖昧だった感情が確かな質量を伴って、至を翻弄する。
友情から恋。そんな境目なんて、軽々と飛び越えてしまうくらいの、衝撃。
恋に落ちるのはいつだって一瞬だ。
「やっと気づいたの?」
「うん」
コート上では試合終了のホイッスルが鳴った。結果は二対一で丞のチームの勝利だ。チームメイトと嬉しそうにハイタッチしている姿が微笑ましい。
「はあ……本当に鈍感なんだから」
「だって生まれてこのかた一度も恋したことなんてないし、そもそもコミュ障で他人と仲良くなるの苦手だし」
「俺たちがいるじゃん」
「臣と幸は家族だから別」
ふうん、と口を尖らす幸は満更でもなさそうな顔だ。
「至は昔から変な女に引っかかりそうだから心配だったんだよね。結局、変な男に惚れちゃったけど。まあ、あの筋肉があれば大抵のことから至を守ってくれるでしょ。よかったね」
「それ、本当に喜んでくれてる?」
「これで俺も臣もアンタの子守から解放されるから嬉しい」
「ええ」
「っていうのは冗談だけど。せいぜい頑張りなよ。あの筋肉男も至と同じくらい面倒くさそうだから」
あまりにも的を射ている発言で反論できない。
至もなかなか性格的に難ありだと思うが、丞も相当だ。
これからどうすればいいのだろう。
丞への気持ちを自覚したのはいいが、このあとのことはなにも考えていなかった。
付き合いたいのか、それもともこのままの関係でいたいのか。丞に告白する自分を想像してみるが、いまいちピンとこない。
気にくわない隣人から気の置けない友人に関係が変わっただけでも奇跡的なのだ。思いを打ち明けて、いまの関係が変わってしまったら、一緒にご飯を食べたり部屋で飲んだりすることもなくなるかもしれない。それは嫌だ。
いままで恋愛してこなかった自分には、人を好きなるということがまず驚きで、そこから先は未知の世界だ。
ひとつ悩みが解決したらまたひとつ大きな悩みが生まれる。恋も仕事も、永遠に課題が生まれ続けるという点ではとても似ているな、と至はどこか他人事のように思った。
*
試合終了後、帰る間際のチームメンバーを臣が紹介してくれた。
「茅ヶ崎至です」
「瑠璃川幸。ちなみに俺、男だから」
以前もこんなふうに自己紹介したのを思い出す。宅配ピザ屋のふりをして丞の部屋に押しかけたことが懐かしい。
「まじか。どこの美形カップルかと思ったわ。なあ、綴」
「俺に振るなよ。いや、でも二人ともすっげえ目立ってましたよ」
綴に話を振ったのは摂津万里、幸がワンレンと呼んでいた男だ。近くで見るとさらに顔の良さがわかる。危うい野性味を帯びていて、年上の異性からモテそうな感じがする。
「二人が座ってるベンチの周りだけ空気が違ったもんな」
黒髪をハーフアップに結っている泉田莇が感心し、君たち三人も相当人気だったけど、と至は心の中で苦笑いした。
万里と綴が大学生だということは予想がついたが、莇はまだ中学三年生らしい。これにはさすがの幸も目を丸くしていた。
雑談をしながら忘れないうちにと借りたパーカーを臣に返すと、
「至さん、どうやって帰りますか?」
と尋ねられた。
「どうって、電車に乗って帰るけど」
なんでわざわざそんなこと訊くんだろうと不思議に思いつつ答えると、とんでもない提案が返ってきた。
「丞さんが運転する車で一緒に帰りませんか?」
「おい、伏見。全員は乗せられないぞ」
「あ、それなら大丈夫っす。俺は万里と莇と飯食ってから寮に戻るんで」
「え、そうなのか」
聞かされていなかったのか、莇は不服そうな顔だ。
「そうなんだよ。行くぞ、莇」
万里が莇の腕を掴み、「じゃあ、おつかれっす」と綴が片手を振り、三人はあっという間にフットサルコートの出口へ消えて行った。
まるで事前に示し合わせていたかのように。
「ふうん。そういうこと。それなら、俺は臣と帰ろうかな。この前臣が言ってた手芸屋に寄りたい」
「そうだな。この近くだから歩いて行けるぞ」
「え、ちょっと待ってよ。それってつまり―」
丞と二人きりになってしまう。
「同じアパートに住んでるんだから問題ないでしょ。ねえ、」
事の行方を黙って見守っていた丞に幸が突っかかる。
「なんだ」
「至のこと頼んだからね」
丞の眉間のしわが一層濃くなる。
なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ、とでも言いたげな顔だ。
「はあ、わかった。茅ヶ崎、車はこっちだ」
なにを言っても無駄だとわかったのか、丞は諦めたように深いため息をついて、こちらに背を向けて歩き始めた。
「だってさ、至。はやく行きなよ」
「う、うん」
どこか腑に落ちないまま、至は急いで丞のあとを追った。
*
休日の道路は混んでいて、丞の運転するミニバンは進んでは止まるを小刻みに繰り返している。
フットサルコートの駐車場を出てからお互いひと言も発していない。
車内の気まずい空気を払拭しようと何度か話しかけようとしたが、助手席から覗う丞の横顔はひどく不機嫌で、喉まで出かかった言葉をその度に飲み込んだ。
シュートをしたときの嬉しそうな顔や至の声援に応えたときの照れた顔は幻だったのかと思ってしまう。
コート上で嬉々としてボールを蹴っていた丞は本当に格好よかった。少年のような無邪気さもありつつ、相手チームの選手と競り合う姿は勇ましくて、贔屓目かも知れないが誰よりも輝いていた。
恋をすると世界が違って見えるというが、恋に落ちた相手もさらに魅力的に見える。この世の誰もが恋に夢中になる理由をはじめて理解した。
だって、こんなの麻薬と一緒だ。
ふわふわして、楽しくて、苦しい。この感情から逃れたいと思っても、一度味わってしまうともう二度と元いた場所には戻れない。
しんどいな、と思う。そして、幸せだなとも。
丞が至のことをどう思っているのか、なぜそんなに機嫌が悪いのか、知りたいことはたくさんあるけれど、いまは隣にいられることが幸せだ。
そう思わなければ罰が当たる気がした。
「着いたぞ」
車窓からぼーっと外を眺めていると、いつの間にか車はアパートの敷地内に到着していた。
「あ、うん。送ってくれてありがとう」
「別に、帰る場所は同じだろ……おい、お前なんか顔赤くないか?」
「え、そう? さっきからふわふわする感じはあるけど……」
それは丞への恋心を自覚したからだと思っていた。
言われてみれば顔が熱い。
「とりあえず下りろ」
どこまでも命令口調の丞に促されて外に出る。
足元が覚束ないと感じたのは、アパートの階段を上ろうとしたときだった。
「ふらふらするな。危ない」
「なんか、足に力が入らないかも」
階段を一段上るたびに足元がふらつく。
「はあ……まったく、ほら掴まれ。部屋まで連れて行ってやるから」
差し出された腕に掴まってようやく階段を上りきった。
丞に支えられながら部屋の扉の前まで辿りつき、鍵を開けるために鞄を探っていると、妙なことに気がついた。
「あれ、開いてる?」
「まさか鍵を閉め忘れたのか? 不用心だな」
丞の言うとおり鍵はかかっておらず、ドアノブをまわすと扉はすんなりと開いてしまった。行きがけにソシャゲの周回に夢中になって閉め忘れたのだろうか。
今朝のことを思い出そうとするが、靄がかかったように頭がぼーっとして思考が散り散りになる。
臣にパーカーを借りたけれど、空調の冷風が直撃するベンチは肌寒かった。普段あまり外に出ないせいもあって、風邪を引いてしまったのかもしれない。
ほんの数時間外出しただけで調子が悪くなるなんて貧弱な身体にもほどがある。
「大丈夫か?」
ベッドに座り込んだ至に丞が尋ねた。
「うん……」
本当は上半身をまっすぐ保つのさえつらい。でも、それを言ってしまえば丞を引き留めてしまうことになる。
心配でついてきてくれたのは嬉しいが、これ以上いつ掃除したかもわからない部屋を見られるのは恥ずかしいし、丞に風邪をうつしてしまっては申し訳ない。
「もう大丈夫だから」、そう言おうとしたら、ふいに肩に温かいものが触れた。
丞が隣に座ったのだ。
肩が触れ合ってそこだけさらに熱を持つ。
「やっぱり熱があるな。はやく横になれ」
額に当てられた手のひらが冷たくて気持ちいい。
前にも丞に頭を撫でられた気がするが、あれはいつだっただろうか。もしかしたら至が作った幻覚かもしれない。
先ほどまであんなに機嫌が悪かったのに。急に優しくされるといったいどんな顔をすればいいのかわからない。
「う、うん……なんか寒気もするし、寝ようかな」
「そんな薄着でいるからだ。ほら、これ着ろ」
ばさりと肩に掛けられたのは丞が着ていたナイロン地のトレーニングウェアだ。
「えっ……」
「なんだ、伏見のは着れて俺のは着れないっていうのか」
どこかいじけたような口調で丞が言うので、あわてて否定した。
「そんなことない! ありがと……」
たぼたぼのウェアを着てベッドのなかにもぐると、身体から急に力が抜けていく気がした。これは本格的に調子が悪くなってきたかもしれない。
「あとで風邪薬持ってきてやるから。安静にしとけよ―」
「ねえ、なんで怒ってたの?」
いまなら訊けると思った。
いまなら丞もきちんと話をしてくれるんじゃないか。
至が熱で弱っているいまなら。そんな淡い期待を抱いて丞に尋ねると、
「怒ってない」
「怒ってたよ」
「別に、ちょっと虫の居所が悪かっただけだ」
「なんで」
「なんでもいいだろ。さっさと寝ろ。薬持ってきてやるから」
「いらない。余計なお世話だよ」
仕返しするつもりはなかったが、どうしても我慢できずに、丞に言われた言葉をそのまま返した。
丞がはっと息を呑む。
「……あれは、悪かった」
別に謝ってほしかったわけじゃない。
丞が自分に怒っているのが悲しくて、なにを考えているのか知りたかっただけだ。そんなふうに耳を伏せた子犬のような顔をされると、こちらが戸惑ってしまう。
「どうしても教えてくれないんだ」
「いいから寝ろ」
「教えてくれないならいいよ。その代わりお願いがあるんだけど」
すごく頭が重い。
でも、これだけは言わないと。
「なんだ」
「また一緒にご飯食べようよ」
返事はなかった。
その代わりに大きなため息が返ってきて、同時にぽんと頭を撫でられた。
柔らかな髪の毛の間を丞の骨ばった指がとおっていく。湿気が不快な時季になるとくるくるになる猫っ毛。今度は幻覚じゃない。
わかったからはやく寝ろよ、と無言で言われている気がした。
至を見下ろす丞の視線がひどく優しい、そんな錯覚を起こしてしまいそうになる。
胸が苦しくて、好きだという気持ちがあふれてしまいそうになる。
隣にいられるだけでいいと思っていた。見返りなんていらない、ただ丞のことが好きだというその気持ちだけで満足していた。
それなのに、いまはその先を求めてしまう自分がいる。
だめだ。熱で弱っているから変なことを考えてしまうだけだ。雰囲気に流されて、変なことを言って、丞を困らせたくない。
ぎゅっと目を閉じると、一気に眠気がおそってきた。
眠りにつくその瞬間まで、丞の手は優しく至の頭を撫でてくれていた。