LOVE YOU NEIGHBOR
2019年に発行した同人誌の再録です。
役者×会社員パロ。
集中管理されているテナントビルの空調が止まると、至はようやく帰り支度を始めた。フロアを見渡すとこんな時間まで残業している社員は自分を含め残り数人しかいない。
今日の午前中に国内に到着するはずだったコンテナ便が海外の港で足止めされ、出港ははやくても来週になると連絡があった。アジア経由の船便はいつも到着が遅れる。国内の納入先に事情を説明し、他にも関係する雑務をこなしていたらあっという間に一日が終わってしまった。
例の夜から一週間、幸い隣人とは一度も顔を合わせていないが、相変わらず隣から生活音が聞こえるので嫌でも存在が気になってしまう。だから、家にいる時はずっとヘッドフォンを着けてしてゲームをしている。実況動画も、自分の声が少しでも隣に漏れていると思うと新作をアップする気がおきなかった。
帰宅時間が被らないのはこの一ヶ月でわかっているので、アパートでばったり会うことはないが、やはり隣に住んでいる人間の存在を完全に無視することはできない。
足音やドアを閉める音、台本を読む声が至の耳から離れない。じわじわと身体がストレスに侵されているようで、口の中に違和感があると思ったら口内炎ができていた。
痛いし染みるし最悪だ。
近所のコンビニでいつものように課金カードと弁当とスナック菓子買って帰宅する。
会社からの距離だけでなく、アパートの近所にコンビニやファーストフード店が多くあるのもこの地域の利点だ。
やはりこの便利さは捨てられない。
この一週間、何度も引っ越しを考えたけれど、立地の良さと気の合わない隣人を天秤にかける度に同じ結論に至る。
騒音など我慢すればいい。
相手のことなんて気にせずに動画を録ればいい。
そうは思ってもなかなか割り切れないのは、「生活が雑だ」と言われたショックからだろうか。
社会人になって、外見や仕事ぶりを褒められることが多かったので、あんなにはっきり自分の欠点を言い当てられたのは久しぶりだった。
アパートの外階段を上り、隣人の部屋を横目に通り過ぎる。ドアを開けるためにスーツジャケットのポケットに手を突っ込もうとして、至はしまったと思った。
ジャケットを会社に忘れた。おそらく椅子に掛けたままだろう。
家を出るときに鍵を鞄に入れた記憶がないから、ジャケットのポケットに入っているはずだ。案の定、鞄の底や内ポケットを探っても使用済み課金カードぐらいしか出てこない。
これは完全に詰んだ。
いまから会社に戻ることもできるが、退社後にもう一度通勤ルートを歩く気分にはなれない。朝出勤するよりも何倍も疲れているのだ。
近所に住んでいる友人などいない。昔から付き合いがある知人はここから電車で行かなければ会えない距離に住んでいる。
駅前のネカフェに泊まるしかないか。
今夜はネカフェに一泊して、明日の朝、会社へ鍵を取りに戻る。土曜日に休日出勤している社員もいるから、オフィスには入れるだろう。今日と同じスーツで同僚に会うのは気が進まないが仕方がない。
スマホを取り出して近所にあるネカフェの料金を調べていると、誰かが階段を上ってくる音がした。
まさか、と思って顔を上げるのと男と目が合ったのは同時だった。お互い「あっ」と声を出したのも。
例の隣人が階段を上りきったところで立ち止まっている。
部屋に逃げ込みたい。でも鍵はない。この場所から消えたい。でも階段はひとつしかない。
暫く見つめ合っていると相手は「はあ」とため息をついてつかつかと歩いて近づいてきた。
「部屋に入らないのか?」
「それが…鍵がなくて」
「は?」
信じられないという顔で至を見返す。
事の経緯を手短に話すと、今度は先ほどより大きな「はあ」で返されて、いたたまれなくなる。
なんの装備もないまま戦場に放り出されたような心許なさだ。
この男の発する言葉のひとつひとつが至の心を抉る。
早々にこの場から立ち去りたい。
「というわけで、俺はネカフェに行くから」
階段に向かって歩きだそうとすると、「おい」と声をかけられて思わず身体がびくりとなった。
なんだ、またなんか言われるのか?
恐る恐る顔を見上げると、
「部屋に入れないなら、うちに泊まればいい」
そう言ってドアの鍵を開けるとさっさと部屋の中に入って行ってしまった。
羽虫が舞う夜の外廊下にぽつんと取り残される。
予想外の分岐ルート。
こいつの部屋に俺が泊まる?
まだ一回もクリアしていないゲームをプレイしていたらいきなり隠しルートがひらかれた、そんな気分だ。ラッキーでもなんでもない、これはきっと盛大なバグに決まっている。
険悪な雰囲気のまま至が隣の部屋を出たのはつい一週間前のことだ。「うちに泊まればいい」と言われても、それを好意として素直に受けとるには、お互いの第一印象が悪すぎる。相手の態度からして自分が好かれていないのは一目瞭然だし、嫌いな人間を家にあげる真意がわからない。
まさか至を部屋に招いてまたねちねちとお説教を始めるのだろうか。
正直なところあの顔で睨まれると怖くてたまらない。
やはりネカフェに泊まろうと思っていると、中からドアが開いて「おい、はやく入れ」と命令口調で言われ、急かされるまま慌てて玄関に足を踏み入れた。
先週と変わらず整理整頓された部屋。
フローリングの床は、飲みかけのペットボトルやスナック菓子の袋が散乱している自分の部屋と違って、ちゃんと大人二人が座れるスペースがある。
「飯は?」
「弁当買ってきた」
「そうか。テーブル使っていいぞ。あと冷蔵庫も好きに使え」
まるで旧知の友人に対するような口ぶりで言うと、男はさっさとバスルームへ消えて行った。
暫くしてシャワーの水音が聞こえてくる。
すっかり冷えたコンビニ弁当を食べながら、至はこの状況を理解しようと首をひねった。
家の鍵を会社に忘れて困っていたら気の合わない隣人が助けてくれた。当の本人は至を置いてシャワーを浴びている。テーブルだけでなく冷蔵庫も勝手に使っていいらしい。
「嫌われては……いないってこと?」
油の染み込んだ衣ばかりの唐揚.げを咀嚼して、炭酸飲料で飲み下す。
お腹が満たされると落ち着いて考える余裕ができて、至を部屋に入れたのは説教するためではなく、本当にただの善意なのかもしれないと思えてきた。
自分なら嫌いな人間を家に入れるなど考えられないし、ましてや顔見知り程度の隣人に対して冷蔵庫の使用を許したりなんて絶対しない。
ただ不用心なだけなのかもしれないが、その無防備さが至を信頼してくれている証のように思えて、少しだけ隣人の好感度が上がった。
ほんの、少しだけだけど。
シャワーを終えて戻ってきた男はラフな部屋着で、シャツ越しでもわかる鍛えられた上半身に思わず見とれてしまう。無駄のない身体とはこういうことをいうのかと、腕立て伏せすらまともにできない至は心の中で感心した。
「シャワー、お前の番だぞ」
「え、いいの?」
「いいもなにも、誰だって毎日身体を洗うだろう」
なにを言ってるんだ、と呆れた顔で言われて、そういう意味じゃないんだけど、と反論する気が失せてしまった。
「じゃあ、お言葉に甘えて……あ、着替えとかないや」
「紬が置いていったのを使え」
いちいち命令口調なのはそれが口癖なのか。
でも、はじめて会ったときほど嫌な気分ではない。
同じ間取りなので、シャワーの使用に手間取ることはなく、渡された服のサイズは至にぴったりで、着心地も悪くなかった。
知らない柔軟剤の匂い。他人の服。
どこまでも非現実的な感じがする。
親しい友人を作らず、上辺だけの人付き合いばかりしてきた。社会人になってからも他人と必要以上に仲良くならないように気をつけていたのに、まさか友人でもない人間の家に泊まる日がくるなんて。
しかも、それを意外にすんなり受け入れている自分に驚いてしまう。
部屋に戻るとローテーブルが端に寄せられて床に布団が敷かれていた。
実は頭のなかでシングルベッドに男二人で寝るシチュエーションを思い描いていたので、客用布団というアイテムが召喚されてほっとする。
「茅ヶ崎、」
「えっ、あ、はい」
「なんだその反応は。茅ヶ崎はベッドを使え。俺は布団で寝る」
俺の名前、覚えてたのか。
なんだか頬が緩んでしまうのはなぜだろう。
「いいよ、俺が下で寝る。た、高遠だって…」
「名前でいい。それに俺は明日朝早いんだ。この土日は地方公演で家にいないから、鍵が見つからないようならこの部屋をホテル替わりにでもしろ」
コミュ障なりに頑張って名字で呼んだら、名前呼びでいいと一気に距離を詰められただけでなく、週末もこの部屋に泊まっていいとお許しがでた。
単発ガチャでSSRが出たときよりびっくりした。
普通、たった二回しか会っていない人間を家主不在の部屋に泊めたりするだろうか。
「なんで……」
そこまで親身になってくれるのかわからない。
戸惑っている至をよそに丞はいたって冷静だ。
「困ってる人間を助けるのは当たり前だろう」
有無を言わさぬ口調ではっきりと言われた。
高遠丞という人間について少しだけわかった気がする。
横柄で気難しい男、でもきっとすごく優しい心を持っている。
「えと……ありがとう」
「ああ」
無愛想な返事。
「もう寝るぞ」と丞が電気を消して布団に入ったので至も仕方なくベッドへもぐる。スマホの時計を確認するとまだ十一時前だ。ここ数年、こんな早い時間に寝たことはない。
ベッドに背中を向けた丞はすでに規則正しい寝息をたてている。言いたいことだけ言って自分だけさっさと寝るなんてどんだけマイペースなんだよ。
至の意向などまるで無視だ。
普通なら蔑ろにされている気がしてもおかしくないのに、なぜか憎めない。むしろ居心地の良さを感じてしまう。
もしかして至が遠慮しないように気を遣ってくれているのだろうか。
まあ、そんなわけないか。
嫌われてはいないと思うけど、たぶん好かれてもいない。
ただの気まぐれで泊まらせてくれたんだろう。
そうやって自分を無理やり納得させて至は目を閉じる。
硬くて低い枕は至の首の高さに合わなかったけれど、物音の聞こえない夜はとても静かで、いつの間にかスマホを片手に眠りについていた。
*
昼前に目が覚めると丞はすでに家を出たあとだった。
紙の切れ端がテーブルに置いてあり、「鍵はポストに」というメモと電話番号が書かれてあった。
なにかあれば電話をかけてこいということなのだろう。
やや右上に傾く癖のある文字は決して達筆ではないが、ぶっきらぼうな丞らしいと思ってしまった。
主のいない部屋をぐるりと見回すと、彼のシンプルで無駄のない生活が見てとれる。テレビもパソコンもゲーム機器もない。独房のように面白味のない部屋だ。
もちろん無線LANも入っていないので、隣の自分の部屋から辛うじて飛んでくる電波でなんとかネット環境だけは死守した。
携帯型の充電器が鞄に入っていたのはラッキーだった。ネットとスマホがあればひとまず生きていける。
なんの特徴もない部屋で、ひときわ存在感があるのが組み立て式のパイプラックだ。至の部屋と同じように丞も東側の壁に寄せてベッドを置いてある。その正面である西側に本や薄い冊子が大量に詰め込まれている銀色のラックがあるのだ。
部屋にいてもソシャゲしかすることがないので、暇つぶしにと思って一冊手に取ってみると、それは至でも知っている海外の劇作家の戯曲だった。
ページを捲ってもまったく興味をそそられない。他になにか読めるものを探しても漫画や小説は一冊もなく、薄い冊子は全て舞台の台本らしい。
舞台には苦い思い出がある。
ゲームが原作の舞台を一度観に行ったことがあるが、映画と同じで何時間も同じ体勢で座るのがキツかった。しかも好きなキャラを演じていた役者がSNSで炎上しがちなこともあって、作品を純粋に楽しめなかったのだ。
それから舞台を敬遠するようになってしまった。
手に取った戯曲をラックに戻すと、あることに気づいた。どれも付箋が大量についていたり、表紙がぼろぼろになっている台本ばかりだ。ぱらぱらと中身を流し読みするとびっしりと細かい書き込みで埋まっている。
何度も何度も読み込まれた台本からは執念すら感じる。
舞台役者を馬鹿にしていたわけではない。けれど、学生時代の部活や趣味の延長で舞台に立っているんだろう、劇団なんてどうせ会社で働きたくないやつらが集まっているんだろう、と心のどこかで思っていた。
会社で働いている自分を上に置いて、無意識に丞を見下していた自分が情けない。
丞が本気で舞台俳優という仕事に向き合っているのは明らかだった。
至が仕事をしているのは労働の対価としてお金をもらえるからだ。そして、稼いだお金を好きなことにつぎ込む。
ゲーム、漫画、課金……自分の好きなものを好きでいるために、毎日毎日身を粉にして働いている。
丞はどういう気持ちで舞台に立っているんだろう。
気づけば窓の外が薄暗くなるまで観たこともない舞台の台本を読み続けていた。